2018年05月31日

日本の行儀という事が無い様になりて

 明治三十六年十月二十七日

 この中の二人の人さっぱり行いを変えんと、物事遅くなるぞよ。差し添えの役員しっかり致して御用して下されよ。元の役員何につけても骨が折れるぞよ。この方がこの世の持ち方ではいけませんと申した折、そんな持ち方はよう務めんと、皆の守護神がもくろみてこの鬼神をこの世に出しておいたら、この世は立たんともくろみて、大神様も我の血統に世を持たせて世の持てなんざ折には、守護神に申しわけが無き故に、そんな事なら、艮の金神は艮へ押し込めてしまえと命令を頂きて押し込めなされたのでありたのでありたなれど、この世持つのは一通りのみたまで、我よかれ勇むばかりの世の持ち方では世は続いてはいかんから、こうなる事は見え透いて居るから、艮へ押し込められて居りてかげからの守護致して居りたのざが、待ちこがれた松の世が参りて来たのは時節が参りて来たのであるぞよ。日本の行儀と云う事が無い様になりてしもうて、学と金の世になりてさっぱり世の持ち方が違うてしもうたのは、世を持つ覚えなくては、タンカは切らんぞよ。これから余り我の強きみたまを現すぞよ。

 艮の金神が一人してこの世持つ様な神でも、我でしくじりたのであるから、今度二度目の世の立て替えは我がありては、出世が遅くなるから、我を折りて貰いたいのであるから、くどう我を折るがよいと申すのざどよ。この仕組みが天晴れと分かりて来るから、そうなりたら何程悪党な守護神でもいかにもわが了見が悪るかりたと恥ずかしうて黙りて居りて、善へ立ち返る仕組みがしてあるが、早く改心して居らんとみな了見が違うて居るぞよ。

 皆のめぐりを人(にん)さいて(人々に指して)現したら、恥ずかしうて大本へは立ち寄られんから、めぐり現せずに祈念を上げて、みたまが浮かぶ様にしてやりて居るのを、ちと信心心が出来ると、神を世話して居る様な心になりて、結構な徳が取れん様な事が出来(しゅったい)が致すぞよ。余り分からんなら、げんじよな(頑迷固陋な・がんこで古くさく道理がまるでわからない)みたまを現してやるぞよ。

 これまでは天で規則が決まりたのでありたなれど、二度目の世の立て替えは、大望と申すのはさっぱりこれまでの規則は用いん事になりて、天照皇大神宮殿よりも一つ上になると申すには、

 ※ 「これまでの神」を信じて来た人たちに、まだ控えめに言うて居られる気がします。




 これまでの学の世を平らげて学をさっぱり平らげて仕舞うて何にもいろは四十八文字にしてしまうから、すっくり艮の金神、稚姫君の命、出口の神と現れるは、変性男子のみたまがすっくり現して珍しき事を致して見せるぞよ。日本字(いろは)と申したが、本字でない万劫末代用いんのは本字とは申さんぞよ。いろはが上になる世が参りたぞよ。本字を平らげるにはこの中から何も仮名にして仕舞うて、いろは四十八文字で竜宮殿の高天原(大本)で出口手で筆先に書かしたら、万劫末代続かす仕組みがしてあるから、今ではちと変わり目で色々と申すなれど、筆先に出口の手で書かしたら、ちっとも違わん規則であるぞよ。

 すっくり現れんと、誠には致さねど、日に増しに分かりて来るぞよ。勿体なくも天照皇大神宮殿の本字かいてあるのを綾部の大本から何もいろはに直して仕舞うから、変性男子の御役は大望な御役であるぞよ。変性男子のみたまでないと、他のみたまではこんな大望な御用は出来んのである。

 ※ 途中の学=漢字の批判と受け取れます。「本字」は元の字と読むべきで、本来の元の字が「いろは」だと申されています。今でもそうですが、特に筆先を読んで行くという事が、漢字で読むと意味が限定されます。字=漢字が、本来そういう意味で使われたのです。それを私解のように「いろは読み」すると、ちがった意味が現れて来ますので、例えば同じ言葉で違う意味が現れたりしますので、考える事が増えていきます。増えますと、これが、中々の効果をまた生みます。

            (「大本年表」分類六ノ一一三~一一八)

















 明治三十六年十月二十七日

 他人(ひと)を苦しめたら、われに苦しむことがでけるし、他人をよろこばしておいたら、われのみたまがよろこぶことがでけるなれど、いまの人民は、みたまが悪にかえりておるゆえに、われにいておることが分かろまいがな。
 われがわれのことを、しておると思うておるのが、まちごうておるぞよ。われがすることなら、われの思わくどおりに行きそうなものざが、思わくに行かんことをおもえば、われがしておるのでなかろうがな。みな人民の思いがちごうておるぞよ。

            (「大本神諭」第三集)           
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2018年05月30日

しまいになりた世を

 明治三十六年十月十二日

 ※ ひらがなばかりの神諭ですので、私解の文章にしていきます。

 艮の金神が出口直に、明治二十五年に十三日のあいだ、しょくもつを取り上げて縛りておいて、あらまし世の立て替えの事、世界にある事を、言わしたのであるぞよ。言わした事が、出て来る時節が、参りたのざぞよ。毛筋も違いの無き事が、口と手とで知らしてありたのざが、あまり皆が、疑いが長いので、物事が遅くなりて、さっぱり迫りて来た故に、何処から破裂いたそうやら知れんが、これだけに屈強な、何でも出来る、屈強盛りの、役員を使うておるが、これでもわからなならんのに、疑いはあまりであるぞよ。

           (「神霊界」大正九年四月一日号)

















 明治三十六年十月二十三日

 悪の守護神でも大本へ毎度立ち寄りて筆先をとく(納得して)腹へ入れた人は悪でも善へ立ち返る仕組みがしてあるなれど、筆先分からん人は今の筆先分からん人良いおかげは取れんぞよ。我が強いと分からんぞよ。

 坤(ひつじさる)の金神が我が強うて一段下へ落ちたのざが、竜宮の乙姫殿があれくらい我の強き御方が今度は我を折らねば出世が後になると云う事が良く分かりて一番早い。艮の金神の次に御出ましになるが、万劫末代の事であるから、取り戻しが出来ん事であるから、出口の手で気が付けてあるのに取り違いを致して居ると、残念な事が出来るから、今度は分かりたみたま結構なれど、分からん守護神は気の毒なものざ。波に取られた沖の舟どこへ取り着く島が無いぞよ。

 上はざんざん(だんだん)汚れるし、下(しも)はさっぱり破れるが、上に立ちた守護神上に立ちてエラソウに下の人民を苦しめて我さえよけら、下の人民かつえても(飢えても)、かまわんやり方でありたから、下の人民
見て居れば可哀想で見て居れんが、そのやり方では長うは続かんから、世を切り替えに致すから、その覚悟致されよ。二度目の世の立て替えは足場をしっかり致さねばならんから、手間がいったのざどよ。

 奥山の紅葉の葉のある内にと思えども、それも我心ざ。

            (「大本年表」分類六ノ九九~一〇一)

















 明治三十六年十月二十三日

 乱れた世を立て替える、世のしまいになりた世を立て替える大本が、けっこうな世界の大本になる、出口が大本で大島(旧大島家)の入口、竜宮館が高天原に、神界ではもう定(き)まりたぞよ。綾部の大本は、やまと魂にねじなおす大本であるから、これまでのやり方の人とは、心があわんから、むつかしきのざぞよ。

            (「大本神諭」第三集)

















 明治三十六年十月二十四日

 我がして居りて我が分からん仕組み、この世の事は皆させられて居るのざどよ。

            (「大本年表」分類六ノ一〇三)

















 明治三十六年十月二十七日

 思い違いをして居るぞよ。いつかど(ひとかどに)神を世話して居ると思うて居るが、神は世大本へ上手して貰うて恩にきせて貰うて大変気障りになるから、この神は誠の心なれば千倍に受けるなれど、誠なくてコリつみての事は出口は嫌がるから、京都野崎の世話で御宮形ちをしてくれた、色々と九曜の鏡もしてくれてなんざ。稲荷講社の折、霊学が表と申して人にコリつましてくれたなれど、そんな見苦しき金でして貰うてもそんな事喜びて人はどうでも我良しの持ち運びたらおかげある様に思うてしてくれても、立て替えの方にはちっとも間に合わんから、誠のある人でないと、誠の方の御用には使えんから、改心出来たその上では心だけの事はさすなれど、誠の方の旧道は苦労の固まりの花が開くのであるから、めぐりの金を持ち来て貰うても、金では出世は出来んのであるから、しよい信心のしにくい信心であるぞよ。しばらくしたら分かりかけるから、みたまを磨きておかんと取り違いが出来るぞよ。

            (「大本年表」分類六ノ一〇九~一一〇)
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2018年05月29日

まごころが奥に、

 明治三十六年十月十八日

 みな綾部の大本の教えを聞いて、神の願い方から、祭り方、やり方を、ちと気の付く人民でありたら分かるなれど、これまでのやり方でやる人民は、それだけのこと、またこれまでのやり方では、いかんと気の付く人民でありたら、そのようにしてやるなり、心だけのおかげほかやれんぞよ。

 こんど大本のおかげをとるのは、まごころが奥に、しっかり胴のすわりた、一を申せば十を知りて、まにあう人民でないと、なまくらな人民はちっとも間にあわんから、みたまの洗濯第一等。みたま磨けたら、よくわかるぞよ。

 世界の大洗濯、みたまの洗濯がはじまると、世界はなにか騒がしくなりて来るから、そうなりてくると、このなかは、きりきりまいをいたさねばならんように、忙しくなるぞよ。

 みな一たいらに、われさえよけらよい、人の願いをしてやるような人民は、いまの人民にはないが、綾部の大本の願いは、世界が立ちて行くようの願いを、日日にいたしておる、人のことに目のつく人民でなくば、神国の人民でないぞよ。

            (「大本神諭」第三集)

















 明治三十六年十月二十日

 艮の金神若姫岐美命、出口の神が現れると、世界が何かの事が激しくなるぞよ。

 ※ わかひめぎみ命については、「稚」と「若」が当て字されています。



 明治二十五年から申してあることが、追々日に増しに出て来るぞよ。せんぐり(先繰り)鏡の出る大本、心に間違いありて、取り損いをして置いて、実地が出て来ると、口惜しき事がある由って、先に気を付けておくぞよ。今度の事は昔からいまだこの世に無き事であるから、皆が取り違いを致すから、よく判るように、出口の手で、よく判るように書かすのであるから、取り様が違うと、目の前に降りて来て居るおかげが取れん様になるぞよ。おかげが取れぬのはいろいろと心に間違いがありて、結構なおかげを取り外すのざが、人民という者は、神とはさっぱり反対であるぞよ。

 ※ この大本神諭も、ずいぶんと王仁三郎の解釈の漢字で変わっています。例えば、おかげは「神理霊徳」で、取れんは「感得れん」というようにです。「神理霊徳感得れぬ」が「おかげとれぬ」ですから、王仁三郎という人が「霊感」を重視しているのがよく解ります。でも、そこが神様が言われる改心の第一なのです。王仁三郎の霊感は何処につながっていたと皆さんはお考えでしょうか。今もいる、何処其処の「代表」や「教主」などが、何処にその霊感をつなげているか、皆さんは判りますか。悪の世の霊界には、悪神が居るのですよ。






 この方は心のきれいな人民を好くぞよ。余り気の汚ない人民は、良いおかげをよう取らんぞよ。これからは表面(うわつら)を飾らいでも、腹の中のきれいな人民が、おかげを取るのが早いぞよ。醜しき人民の掃除致すのには、骨が折れるぞよ。

 われのみたまが曇りて居ると、神とは物事がさっぱり反対であるから、まこと申してやると悪く取るので、まことのおかげをやる人民が無いから、ものが遅くなるのじゃぞよ。この方が表にすっくり現れると、善と悪とが立てわけるから、今の内にみたまを磨いておかんと、大本にわれも私もと申して出て来だすが、磨けんみたまは入る事が出来んことになるぞよ。

 ※ 善は「霊主体従」、悪は「体主霊従」と当て字してあります。要は、霊が主か従かということですが、そのような解釈自体があまり意味をなしません。王仁三郎の意味付けでは、霊を従にした場合、欲が勝(まさ)るということなのでしょうが、その欲にばかり意識の焦点を当てても根本の改心に果たしてつながるでしょうか。だいたい、霊感ばかりに重きを置いた時点で、私は間違いだとおもうのです。神様がいつも言われる「素直に筆先を読む」ということが、常に素直であるという事が大事であるとおもうのです。いや、そうじゃ無いという人にはこれ以上は言うのを控えますが、このブログでは『英知へのターニングポイント』を書き写してあります。意識が、脳が、いつもどの様に働いているのかを、一度客観的に学んでほしいとおもいます。人間の思考について学ぶべきなのです。霊・霊界・霊感という、分かったようで判らない、そんなままの人たちが、この不明な「霊」を受け入れるべきではないでしょう。慌てなくとも自然に、やって来るものを受け入れられる日がきます。




 綾部の大本は、日参を致しても、昔から信心して居りても、道の違う信心しておると、まことの事を言うて貰えんぞよ。腹の中まで、見抜いたその上で、初発から松心で、続いて来た人は結構なれど、迷い心のある人は、またそれだけのおかげほか無いぞよ。初発から変わらずに、艮の金神一筋で来た人は、違うた事があるなり。

 ※ 「違うた事がある」というところも、「霊異た応果がある」としてあります。私が意味を考えると、「違う霊界につながり、その応分の成果がある」となります。王仁三郎は、自身のつながる霊界に自信満々ですが、考えてください。開祖様の筆先は何と伝えられましたか。





 アチラに迷いコチラに迷い、心の多い人の、我よしの人は、またそれだけのおかげほか無いという事は、度々気が付けてあるのに、聞かんと置いて、仕放題にしておいて、行く道が無き様になりたと申して、後に戻りて旧道(きゅうみち)の勉強は、仕放題にして居りた人は、綾部の大本のイロハ四十八文字の手習いは、外国の学の勉強とは(より)辛いぞよ。辛いと申すのは、イロハの勉強は、筆先通りに、行いから日日のやり方を、筆先と合うように、行いをして貰わねばならんから、イロハをこれ迄に侮(あなど)りて居りた人程、大本に出て来ると修業が辛くなるぞよ。さっぱり世がかえりて居りた故に、やり方が違うて居るのを、さっぱり綾部の大本から、直さなならん大本であるぞよ。

 八十の手習いと申すのは、今度世が変わると昔に戻るから、何もたとえが出してあるぞよ。六十になりてからでも、八十になりてからでも、イロハから手習いを致さなならん世が参るから。明治二十五年から出口の手で知らして居るのに、今疑惑(うたがい)ある人、気の毒なものざ。疑うて居る人民程、今度は苦しむぞよ。苦しむのを見るのが神は辛いから、くどう気が付けてあれども、今に判らん人民ばかり、可哀想でも是非無きこと。言うてやりてもまことにいたさんし、書いて見せても見えず、めくらつんぼの世になりて仕舞うて居るので。おかげの戴かせ方が無いぞよ。

 何時まで大本に初発から来て、長い修行して来たとか、私は古い信者だとか申して、エラソウに言うて居る人民程、まことが判りて居らんのざぞよ。大本の信心の仕様(やり方)は、判る人程口数静かなぞよ。われに信仰出来て居ると思うて出て来る人、それが途中の鼻高ざ。歯をねじ折りて仕舞うてやるぞよ。厭な人は来んといて下されよ。かえって神の邪魔になるぞよ。どうぞして改心をさして、またそれぞれの御用をさしてと思うても、邪魔になる人民、寄り付かれんようになるが、御詫びを致すが良いぞよ。

            (「神霊界」大正八年十二月十五日号)    
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