2018年12月28日

われの心に

 ※ 次の神諭は「神霊界」に載せられたものですが、ひらがなばかりの神諭ですので、私解の文章になおします。

 


 大正四年七月六日

 みろく様の世にかわる折りのおん記しであるぞよ。何程よくわかるように気を付けてやりても、心に誠と云う事が無いから、上(表面)から見ただけにほか(以外には)取れんから、我の心に誠さえありたら、誠の実地の心と云う事が、良く判るなれど、今の世は上面(うわつら)が立派なだけで腹の中に、とっときの知恵の無い、ありったけの知恵を早う人に見せて、肝心の折に使う知恵の無いみたまになりて居るから、肝心のとどめに間に合うみたまがちっとも無いぞよ。

 実地の間に合う知恵は、善一つの実地誠のうぶの心、今度実地を致す天地のうぶ(初)の神の申す事を、誠に聞いてくれる、元の直(じき)のおん血筋でないと、誠の御用は出来あがらんぞよ。一厘の仕組みどおりに成りて来て、もう爪も立ちは致さんから(爪が入るすき間も無いから)、立て直しの仕組みは、何も仕組みてあるから、ご安心をしてくだされよ。永い仕組みであるなれど、仕組み通り致すから、お筆先に書かしてある事も、この方の言葉で申してある事もあるぞよ。大出口直に申してある事が世界に皆あるぞよ。

 立て替えはいっさく(一度)に致すなれど、そうすれば世界には、たっぴつ(沢山)人が減るなれども、延ばして言い聞かしたとこで、誠の事が耳に入らんから、後の立つ様に致さねば、後が大事であるから、後の立て直しのお筆先を書かすから、立て替え致してしもうておいて、後の立て直しをそろそろする(ゆっくりする)ような事をして居りたら、立て直しも遅くなりて、何も間に合わんから、立て替えが十年余り延びたので、大変ものが遅くなりて、世界がどうしようも無い事に成りて居るから、立て直しが早う成る事があろうもしれんと云う事が、お筆先で知らしてあるぞよ。

 二度目の世の立て替えで、末代の世の事が、決まりてしまうのであるから、この二度目の世の立て替えは、末代の世に後にも先にも無い、大望な事であるぞよ。この世を末代続かすのは、上から下までの心が揃うて、一つの心で運否(うんぷ)の無いように、悪いことは陰で告げ口を致したりせずに、互いに気をつけ合うて、善一つの道をこしらえて、この先は小言が無いようの、誠の道が作り直してあるから、これ迄の心を、さっぱり持ち変えて善一つの道で、皆和合致してくだされよ。

 慢心と取り違いが一番。疑いと、我(が)がありたら、思うて居る事に大間違いで、早速にはものも言えんような事がある、口をつまいて、顔を見合わして居らんと、何も言えんような事があるぞよ。大本の中は皆大化け物であるから、大化け物が現れたら、世界が一度に動くと云う事が、お筆先で知らしてあるが、もう近うなるから、皆揃うて改心を致して、みたまをよく磨いて置かんと、めんぼくないやら恥ずかしい事がでけて来るぞよ。



 みろく様の世になると、世界には口舌(くぜつ・争いごと)が無いように、人の心が穏やかな、良い心になりて、悪いこともせんように成りて、これ迄のような贅沢な事は致されん、二度目の世の立て替えを致したら、上から下まで、つつましいやり方で、日日楽に暮らせるように、天地から守護致すから、二度目の世の立て替えは、骨の折れる事であるなれど、これ迄の心をさっぱり入れ替えを致してしまわんと、人民の心さえ変わりて来たら、天地の先祖は何かの事を、待ちこがれて居るのであるぞよ。何かの時節がまわりて来て、この先は善の道に、立ち帰らねば、悪ではもう一寸も行けんぞよ。

            (「神霊界」大正九年八月一日号)


 ※ 今年はここまでとします。年明けは、一週間の休みをとってからの投稿とします。

   本年もお付き合いいただきありがとうございました。良いお年を。



 



    
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2018年12月27日

因縁のある御魂

 大正四年五月三十日

 これ程大望な事は世界に他には無い事であるから、綾部の大本は因縁のあるみたまでないと、まことの事が耳へ入らんぞよ。因縁のあるみたまでありたら、お話を聞いて、お筆先を読みて聞かしてもろうたら、なんとなく恋しうて帰(い)ぬのが嫌になる所であるぞよ。

 今度の二度目の世の立て替えを致して、西と東にお宮を建てて、天のお三体の大神さまが天から上がり降りをなさるなり、地の先祖が天もかまい、地の世界から天へ上り降りを致して、天と地との根本の、世の根のおん血筋の元のやまと魂の、天地の先祖が末代の世をかまわねば成らん世が参りて来たぞよ。世の元の根(ね)のおん血筋で無いと、末代の世は続きは致さんぞよ。

           (「大本神諭」第五集)

















 大正四年六月一日

 変性男子のみたまがすくり(すっくり)現れんと、国常立尊が現れんぞよ。もう時節が参りて来て、国常立尊が世界へあぱり(あっぱれ)現れて、天の根本のみろく菩薩と成りて仏事の守護して御出遊ばした事を速やかに現すのは、根本の地の先祖であるぞよ。元の根本のじきじきの精神の事からを現すから、この世の守護して居れた元の精神を現して、日本の元の一の番頭二の番頭がこの世持つは番頭の精神次第。後継ぐみたまは綾部の大本は代々女の御世継ぎと相定まりて御筆先に出してあるぞよ。女で無いと、男では途中の世が乱れて末代の世が続かんから、初発から何も筆先で知らしてある事が毛筋の事も違いはせんぞよ。

            (「大本年表」分類九ノ九五~九六)

















 大正四年六月三日

 充分大本の中の変性男子のやり方、明治二十五年からの初発からの御筆先を見つめて、変性男子のやり方をよく目を付けて見て居りて、二代のやり方を見て居ると、世界の鏡の出る大本であるから、月の大神弥勒菩薩、またしう(ご)じん様と申し、日の大神(、)大日如来、光明如来、また三宝大荒神様と申し、地の先祖を地神、金神様と申し、この世には善と悪とが無い事には、良し悪るしが解らんから、天地の間に湧かしてある類いの物、どんなみたまでも湧かしてありて、どんなみたまでも我の性来ほか出来ておろまいがな(どんなみたまで(も)我の本性以外をあらわすことができない(三一書房の注))。

 ※ 「月の大神弥勒菩薩、また………」を私解します。私が「日の大神大日如来、光明如来、また………」としてあったのを、「日の大神、大日如来、光明如来、また……」としました。「、」を入れ、日の大神=太陽と大日如来をわけました。私解では、大日如来は「北極星」であり、筆先に出てくる「御三体の大神様」とは、月・太陽・太古の北極星だと考えているからです。「また三宝大荒神様と申し、……」とあるのは、私たちの目を密教に向けるためとの感を受けます。

            (「大本年表」分類九ノ九九~一〇〇)

















 大正四年六月八日

 初発に乙姫殿が同じ根本のやまと魂の元の御守護でないと間に合わんぞよ。米(よね・開祖様の長女)は乙姫のみたまであるから、長らくの誰もようせん辛い行(ぎょう)が出来たのは乙姫殿のみたまのめぐり、直の初発の子にすぐにめぐりを取らせなされて、米の醜きみたまが速やかに(よく)なりて、米のみたまと一つになりて、一番初発の御出世であるから、乙姫殿を見て皆の守護神改心を致して、我一とみたまをそれぞれに御用の命令をさげて、御用致せば結構であるから、びくり箱と申すのは、思いがけない事が判りて来て、この世に無いと思うて居りた元の生き神が煮ても焼いても叩き潰して喰うたと申して悦び居れた守護神が余りの事が日本に仕組みてあるので、びくりを致す事である。大びくり箱が開くと申して、明治二十五年から続いて知らして居りた事の時節が参りて来たのであるぞよ。

            (「大本年表」分類九ノ一〇五~一〇六)

















 大正四年六月二十五日

 汚い心を大河へ流してしもうて、うぶの心になりたなら、その日から心が楽に暮らして嬉しうなりて、小唄のひとつも歌いたいようになるということも、お筆先で知らしてあろうがな。

            (「大本神諭」第五集)




      
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2018年12月26日

自由に分け取りにして居るが、

 大正四年五月二十七日

 大国常立尊変性男子のみたまが出口の神と現れて、世界の守護致すと、これ迄のような事はして居れんから、神は激しうなると云う事が、筆先で知らしてあるぞよ。知らしてあるように何も成りて来るから、大変神の方は激しうなるぞよ。これ迄は延ばしたなれどもう延ばす事が出来んから、作り物を収穫(とら)して置いて、兵糧に困らん様に致して、何かの事を始めるぞよ。

 これ迄は天と地との先祖が、この世をこしらえた(創造した)のであるのに、この世界を誰にことわりて、何処から命令を下(さ)げて貰うて、他の神の自由には成らん世界であるのに、天の御先祖様を有る甲斐無しに致して、地の先祖はこの世にもう無い神に致して置いて、人民の自由に致して来たが、これから天地の先祖が世の元に立ち返るから、この世は他の神の自由には成らん世界であるのに、自由自在に分け取りにして居るが、この先は世の元の天地をこしらえ(修理固成)た元の生き神の世界に致すぞよ。

 世界を修理固成(こしらえ)たもと(根本)の生き神を邪魔になると申して艮(うしとら)に押し込みて置いて、まだし足らないで、この方を煮たり焼いたり、叩き潰して食うて仕舞うと申して、この世界の地面を分け取りにして居るが、蔭から見て居れば、外国に上げてある悪の強い極悪神(ごくあくがみ)が、初発(しょっぱつ・さいしょ)からの目的通りに此処までは来たなれど、これも九分九厘となりて来たから、もはや何時びっくり箱が開いて、手のひらが反るやら判らんぞよ。

 外国の悪神(あくがみ)は大きな思い違いになりて来て、悪の仕組みはさっぱり滅びるから、世界中の守護神が皆揃うて善一つの御道(おみち)に立ち返るなら、二度目の世の立て替えを致して助けてやるぞよ。ここ迄に極悪の仕組みで暗闇の世にして居る世を、世の元の天のみろく様の善一ト筋の御道に立て直すぞよ。地の世界の世をこしらえた国常立尊が、この世の来る事が、世の元から良く判りて居るから、世に押し込まれるのも都合の事であるぞよ。こう言う事に成りて来るのも、みたまの性来(しょうらい)で気張りて致す事が、悪のみたまは悪の事ほかでけはせんのが、みたまの因縁性来であると申して、明治二十五年から筆先でこまごま良く判る様に書かして知らしてあるなれど、判る守護神が無いのは、眼のつけ所が違うから、どない申して知らしても、言葉で知らしても、判る守護神が今に無いであろうがな。



 余り大きな取り違いを皆して居るから、立て替えの仕掛けが出来んから、そのままの事、善し悪しの事を平易(ひらたく)書いて知らしてやりて、それでも敵対い心がある守護神は、末代世には上がれんみたまに致して、放り込みて仕舞うて、そのみたまは末代この世に出られんように致すぞよ。こういう世が来る事は、日本の太初(もと)から良く判りて居るから、二度目の世の立て替えを致さなならんと云う事も、太古(むかし)から良く判りて居りての今度の大望であるぞよ。今度底の国に放り込まれたら、地の底に埋(い)け込まれた同様であるぞよ。上がる事も霊魂(みたま)は死ぬ事も出来(でけ)んから、善悪を立てわけると申して、筆先に出してあろうがな。申してある時節が来たのざから、時節には何も敵わんから、改心すれば仕様もあるなれど、改心の出来(でけ)んみたまは、さっぱり選り別けてしもうて、悪い霊(れい)の残らんように、洗い替えのさらつ(新しい)の世に致すのであるから、何に付けても大望と申すのであるぞよ。

 太初(もと)から日本と外国とはさっぱり立て別けてありたのを、ここまで汚(けが)したその守護神も、皆改めがしてあるから、始まりたらめぐりの酷い国は眼も開きはせんぞよ。毎度申してあるが楽なやり方で後先見えん我良しのやり方で遣りよると、こういう難渋な世に乱れてしもうて、行きも戻りもならんと言うのが、今の事であるぞよ。こんな世を良い世と申して、このなりでモ一つ悪を強くして、まぜこぜの世で、末代遣りて行こうとの九分の方の仕組みも、良く知りて居りての、日本の国には九分九厘行きた所では、手のひらを反す仕組みがしてありての事であるから、何に付けても早くは言われず、言わな判らず、言うては仕組みの邪魔になるし、辛い御用をさしたぞよ。もう悪のみたまでは、これ迄何程幅が利きたみたまでも、時節には敵わんぞよ。

 ここ迄来るのは口惜しかりたなれど、口惜しい事をこばり(耐えて)詰めて来んと、善の御道は判りて来んぞよ。これ迄の悪の世の中のやり方の中に、善の教えを致すものは余程御苦労な事でありたなれど、何も時節には敵わんと申すのは、この二度目の世の立て替えを致したら、悪の霊(れい)が毛筋の横幅の半分混ざりても、さっぱり選り別けてしもうて、末代善一ト筋の御道で、水晶のやまと魂に致して、みろく様の良い世に戻す綾部の大本は、世界の大本と成る尊い所であるぞよ。

            (「神霊界」大正八年十月十五日号)


  
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