2019年01月31日

「皇威発揚」

 ※ 大正五年の出来事を、『大本略年表』(愛善世界社・2017年)から写しておきます。


 大正五年 1916年 

 3.19 金竜海開掘工事竣工。

 4.4  浅野和三郎参綾。

 4.5〈3.3〉聖師、橿原神宮・畝傍山に参拝。国祖の神勅を伝える。

 4.11 機関誌『このみち』創刊号発行。

 4.13〈3.11〉聖師の左頬より神島形の玉石現る。

 4.22 大本(たいほん)教を皇道大本(おほもと)と改称。

 4.28 聖師、横須賀・東京へ巡教。

 5.11 聖師、肝川へ。

 6.25〈5.25〉神島開き。聖師、神島の神霊を奉じて綾部へ。(6.28帰綾、開祖と神霊的対面)

 9.8〈8.11〉聖師、神島で神宝を授かり金竜海の大八洲岩戸内に仮遷座。

 10.4〈9.8〉開祖・聖師一行、神島へ。

 10.5〈9.9〉神島で坤の金神鎮座祭。尉と姥の神事。聖師がみろく様の霊であるという筆先が出る。

 11.3〈10.8〉開祖聖師ほか、変性男子・女子和合の御礼のため弥仙山参拝。

 12中旬~ 秋山真之少将など海軍将校の参綾激増。   















 大正五年一月六日

 大国常立尊変性男子のみたまが、皇威発揚(いつき・注1)の神と現れて、

 ※ 三一書房の注には、「天の巻」では「皇威発揚(いつき)」が「出口(でぐち)」となっている、とある。

 これは明らかな王仁三郎による我良し解釈である。「皇威発揚」は「こういはつよう」と読み、「皇威」とは天皇の威力=軍隊がアジア諸国にその勢力を「発揚」=拡大して行く事である。王仁三郎の頭の中には、開祖の筆先の大神と天皇が重なるようである。だがしかし、これは重大な筆先の読み違いである。しかも、筆先には「取り違い」の指摘が既に何度も出されているのにである。

 こうなると、単なる「取り違い」「読み違い」をこえて、これはもう確信犯的な行為と言わざるを得ない。こうした王仁三郎の我良し解釈が、多く人々を混乱させて来たのである。三一書房の注にあるように、「大国常立尊変性男子のみたまが、出口の神と現れて、」が正しいのは当たり前である。

 でも、もっと深い大本の神の仕組みがあったとしたら、言い方は悪いかも知れないが、こんなことはわかった上で王仁三郎を「走らせた」のだとしたら、王仁三郎の増長も意味があった事になる。年表にあった「聖師がみろく様の霊であるという筆先が出る」のも、王仁三郎=みろく様では無いのに、新たな大本の動きが起きつつある証拠である。




 


 三千世界の三段にわけてあるみたまを、それぞれに立て替え立て別けて、目鼻を付けて、まずこれで楽じゃと申すように成るのは、大望であるぞよ。二度目の世の立て替えは、戦や天災とで済むように思うて、今の人民はエライ取り違いを致して居るなれど、戦(いくさ)と天災とで、人の心が直るのなら、埒よう出来るなれど、今度の世の立て替えは、そんなたやすい事でないぞよ。昔から立て替えは在りたなれど、臭い物に蓋をした様な事ばかりが、して在りたので、根本からの動きの取れん立て替えは、致して無いから、これ迄のやり方は、みたまはなお悪くなりて、総曇りに成りて居るから、今度は一番に、霊魂(みたま)界の世の二度目の立て替えであるから、何に付けても大望であるぞよ。

 ※ みたまとあるところを、「霊魂界」としてあります。素直に目を向ければ、「霊界」であろうと思われます。この様な当て字は初めて見ます。




 これ程曇り切りて居る、三千世界のみたまを、水晶の世に致して、モウこの先は、曇りの懸からぬように、万古末代、世を持ちて行かねば成らんから、中々骨の折れる事であるぞよ。

 天地の大神の思いと、人民の思いとは、大きな違いであるから、何に付けても、今度の仕組みは、人民では汲み取れんぞよ。人民一人を改心させるのにも、中々に骨が折れようがな。今度の二度目の世の立て替えは、昔の始まりから出来て居る、みたまの立て替え立て直しで在るから、悪いみたまをのうにして(無くして)しもうてするなら、容易(たやす)く出来るなれど、悪のみたまを善へ立て替えて、この世一切の事をやり方をかえて、乗り換えて、新(さら)つの世の(あたらしい世の)生粋(きっすい)の、元のやまと魂にしてしまうのであるから、今の人民の思うて居る事とは、天地の違いであるから、毎度筆先で気を付けてあるぞよ。


 綾部の大本の中には、世界の人民の心の通りが、皆にして見せてあるぞよ。大本は世界の鏡の出るところであるから、世界に在る実地正末(しょうまつ)が、皆にさして見せてあるから、色々と心配を致して居るなれど、どんな鏡もして見せてあるから、世界がよく成る程、この大本は善くなるぞよ。今ではモチト、何事も思うように無いのであるぞよ。

 世界の事が、皆大本に写(うつ)るから、それでこの中から、行いを善く致さんと、世界の大本と成る、尊い処であるから何事も筆先通りにして行かねばならんぞよ。これ迄の世のやり方は、日本の国では用いられん、外国の極悪のやり方に、変わりてしもうて居るのを、めくらつんぼのような日本の人民は、知らず知らずに、させられて居りたので在るから、分からんのはもっともの事であるぞよ。日本の神が抱き込まれて、神の精神が狂うて居るのであるから、人民が悪う成るのは当たり前であるぞよ。

 モ一つこの先を悪く致して、この現状(なり)で世を立てて行く、どいらい仕組みをして居るなれど、モウ悪の霊の利かん時節がて循還(まわり)て来て、悪神の往生致す世になりて来たから、我の口から我が企みて居りた事を、さっぱり白状致す世になりたぞよ。



 天地の御先祖さまを押し籠めて置いて、この世に恐いもの無しで、元の大神様の、光の出ぬように致した、極悪の頭目(かしら)であると言う事を、何も白状致して、善へ立ち返りてどんな働きでも致すと申して居るなれど、…………外(ほか)のみたまが一平(いったいら)に悪に成り切りて居るから、これを善一つの道に歩まして、世を立て直すのは、元の世界をこしらえるよりも、何程大きな骨が折れるか知れんぞよ。

 この大望な三千世界の立て替えを、小さい事に取りて、大神の力に成る守護神は無いぞよ。これ程ウジャル程守護神は在りても、皆思いが違うから、この事が遅くなりて居るぞよ。遅くなる程、世界中が難渋となりて、後へも先へも、手も足も取り付く島も無くなるぞよ。

 ※ 三一書房の注によれば、「天地の御先祖さまを押し籠めて置いて、…………」から「取り付く島も無くなるぞよ。」まで、「天の巻」では削除されている、とのことである。


 

 世界のみたまが、九分まで悪になりて、今まで世を持ち荒らして来た守護神に、改心の出来かけが、どの様にも出来んから、神も堪え袋を切らして、一作(いっさく)に致せば八九分みたまが無くなるし、改心さす暇がもう無いし、これ程この世に大望な事は、昔から未だ無い、困難な二度目の世の立て替えであるのに、何も分からぬ厄雑神(やくざ神)に使われて居ると、何も判らんぞよ。

 まことの行(ぎょう)も致さずに、天地の先祖を無くして、悪のやり方で世界の頭になりて、この先を悪をモ一つ強く致して、交ぜこぜでやりて行こうとの、初発の目的通りに、ここ迄はとんとん拍子に面白い程のぼりて来たなれど、この日本には、神の深い仕組みが、世の元から致して在りて、日本の仕組み通りに九分九厘まで来たぞよ。

 悪神の仕組みも、九分九厘までは来たなれど、モウ輪止まりとなりて、先へ行く事も出来ず、後へ戻る事も出来んのが今の事であるぞよ。仕放題の我よしのやり方で、末代の世を悪で立てて行こうとの目的が、今までは面白い程のぼれたなれど。

 日本の国には、チット外のみたまには判らん仕組みがしてあるから、人も善し、我も善し、上下揃うて行かねば、国の取り合いをするような、見苦しき性来では、世は永くは続かんぞよと申して、筆先に出して、気を付けてあるぞよ。この世は、善と悪とを拵えて、どちらで、この世が立つかという事を、末代続かせねば成らん世であるから、何事も天地からさしてあるのであるから、我がして居るなら、何事も思うように行けんならんのに、どうしても行けんのが、神からさせられて居る証拠であるぞよ。善の道は、苦労が永いなれど、この先は末代の世を続かすので中々念に念が入るぞよ。


 仏事は悪のやり方で在りたぞよ。モウこれからは、仏では治まらんぞよ。善の行は永いなれど、善の方には現界世(この世)に何一つ知らん事の無い様に、世の元から行がさしてあるから、この先は、悪で仕放題に行無しに出て来た守護神が辛くなるぞよ。どんな事しておくと、何事もこばれる(我慢できる)なれど、行無しの守護神に使われて居ると、世の終いの始まりの御用は勤まらんぞよ。善と悪との変わり目であるから、悪の守護神はジリジリ悶える様になるから、一日も早く改心致して、善の道に立ち帰らねば、モウこれからは貧乏ゆるぎ(貧乏ゆすり)もささんぞよ。善の守護神は、数は少ないなれど、どんな行もさしてあるから、サア今と云う様に成りて来た折りには、何程激しき事の中でも、気楽に神界の御用が出来るから、一厘の御手伝いで、日本の世の大本には、肝心時に間に合う守護神が拵えて在りて、世界の止めを刺すのであるから、日本の国は小さうても、大きな国には負けは致さんぞよ。日本は世界から見れば、小さい国であれど、天と地との、神力の強い本の先祖の神が、三千世界へ天晴れ現れて、御手伝いあるから、数は少のうても、正味(しょうみ)のみたまばかりで、どんな事でも致すぞよ。何程人数が多くても、何の役にも立たぬ蛆虫ばかりで、善い事は一つもようせずに、邪魔ばかりを致すから、世界の物事が遅くなりて、世界中の困難であるが、まだ気の付く守護神が無い故に、何時までも筆先で知らすのであるぞよ。

 天地の御恩も知らずに、我よしでここ迄昇りつめて来た悪の守護神に、改心のさせかけが出来んので、何事も遅くなりて、総損ないに上から下までの難渋となるから、明治二十五年から、今じゃそうじゃと申して、引き戻しに致して気の付く様に知らしても、元からの思いが大間違いで在るから、世界の立て替えの九分九厘となりたところで、ジリジリ舞う事が見え透いて居るから、気を付けるぞよ。天地の先祖の、思いの判りて居る守護神と、人民は、今に無いぞよ。これ程暗がりの世の中へ、世の元の正末(しょうまつ)の生き神が揃うて表れても、恐いばかりで腰の抜けるものやら、顎が外れて早速には物も言わん様な守護神や、人民が沢山(たっぴつ)出来るばかりで、神の目からは間に合いそうに無いぞよ。

 判りたみたまの宿りて居る肉体でありたら、どんな神徳でも授かるから、この神徳を受けるみたまに使われて居りたら、一荷(いっか)に持てん程神徳を渡すから、その貰うた神徳に光を出してくれる人民で無いと、持ち切りにしては天地へ申し訳が無いぞよ。

            (「神霊界」大正六年三月一日号)




  
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2019年01月30日

いよいよ、大正五年に入ります。

 ※ 三一書房(1982年~)の『大本史料集成 1思想篇』(編者 池田 昭)の書き写しをしています。『大本史料集成』は全巻三冊あり、私はこの中の、大本開祖のいわゆる筆先のみを写しています。

 いよいよ、私が書き写しを始めるきっかけになった大正六年の筆先が近づいていますが、もうだいぶと「こたえ」は出ています。私は、筆先に出て来た「国常立尊」に対して、筆先を充分に読めなかったことから、それは私たちの目に見えるように筆先が大本神諭として出版されてこなかったからなのですが、読み間違いをしていました。「元の国常立尊」とは、天の御三体の大神様の中の天のみろく大神様でした。この理解が私を解放させてくれました。もう一点の曇りの無い筆先の信者に成る事が出来ました。ですから、『大本史料集成』の「大本神諭」を読む事が、本当に大事だったのです。この感激を忘れずに、神様と開祖様が言われた改心を、これから第一とおもい定めて行こうと決心をかためているところです。




 


 

 第六章 大正五年~大正七年 396頁~



 大正五年一月一日

 大国常立尊が三千世界の、上中下と三段に分けてある霊魂(みたま)を、それぞれに目鼻を付けて、皆を喜ぶように致すのは、根本のこの世をこしらえるよりも何程気骨(きぼね)の折る事じゃ、人民には分からん事であるぞよ。

 初発の悪のみたまは、悪の事ならどんな事でも出来るから、ここまで世界中を悪で絡(から)みてしもうて、善という道は通らぬように致して来た、悪神の頭(かしら)をあらわして、トコトン往生をさせて、また次に守護神を改心さして、下(げ)の守護神も続いて改心させねば神世には成らんぞよ。下の守護神が一番に何かの事が解らんなれど、改心を致さねばどうしても改心致すように喜ばして改心させねば、叱(しか)るばかりでは改心の出来ぬ守護神も在るなり、何も解らん四つ足の守護神のどのいにも成らぬ(どうにも成らぬ)ドウクズは、天の規則通りに致して、らちよく致さねば仕様(しよう)はモウ無いぞよ。この先で何時迄も改心の出来ぬ、悪魔に永う懸かりて居りて、世の立て替え出来んような邪魔を致した守護神は、気の毒が今に出来致すぞよ。これだけ気を付けて知らして居るのに、改心の出来ん悪魔に成り切りて居る、みたまの宿りて居る肉体は、可哀想でも天地から定まりた規則通りの采配に致すぞよ。


 モウ何時迄も解らんような守護神を助けて置いたら、世界が総損ないに成りて、ここまで神が苦労致した骨折り水の泡に成りてしまうぞよ。それでは永らくは神が苦労致した甲斐が無くなりて、天の大神様へ申し訳が立たんなり、神は守護神人民を助けたいのは、胸に一杯であるから、モウ一度気を付けて置くから、何事が出て来ても神に不足は申されまいぞよ。これからは悪神の守護神の好きな事も、悪るき事も出来んように、天地から埒を付けるから、何処を恨む事も出来ず、自己(われ)の心を恨める事も出来んようになるぞよ。天地の先祖の神は善の守護神も悪の守護神も、皆を喜ばしたいと思うて、色々と永らく気を付けたなれど、ドウクズの蛆虫(うじむし)同様の、みぐるしき聞き分けの無いものは、一と処へ寄して固めて灰にしてしまうから、悪いものに悩められて、命を取られるような肉体には蛆虫同様、海外(向こう)の悪い眷族(けんぞく)と、モ一つ下たな豆狸というように、論(ろん)にも杭(くい)にもかからんものに弄(もてあそ)びに合うて居るのは、肝腎の神の綱を切れて居るみたまであるぞよ。


 天地の先祖の苦労の解らんみたまは、蛆虫同様であるから、そんなみたまをこの世に置いたら、世の汚れ成るから、神界の仕組み通りに致して埒よく立て替えを致して、後の立て直しが中々大望であるから、仕組み通りに致して見せるぞよ。そう致すと神は善一つなれど、何も分からん世界の人民が、悪の守護神に引かされて、やはり艮の金神は悪神で在りたと申すぞよ。細工は流々仕上げが肝腎であるぞよ。天地の神の御恩も判らぬような、畜生より劣りた名の付けようの無いものは、末代の邪魔になるから、天地の規則通りに決めるから、悪の守護神の中でも改心の出来たのは、今度の立て替えに焼払いになる所を助けてやるぞよ。蛆虫の中からでも助かるべきみたまが在れば、選り出して善の方へまわしてやるぞよ。


 天の大神様がいよいよ諸国の神に、立て替えの命令を降ろしなされたら、艮金神国常立尊が、総大将となりて、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、八百万の眷族を使うと、一旦は激しいから、なるべくは静まりて世界の守護をさせるなれど、昔の生粋のやまと魂の生き神の守護と成りたら、この中へ来て居るみたまに申し付けてある事を、み覚えて居るであろうが、一度申した事はその様に致すから、神の申す事を一度で聞くみたまで無いと、十分の事は無いぞよ。モウ神からはこの上人民に知らせる事はモウ無いから、大峠が出て来てから、どないでも改心をしますで許して下されと何程申しても、許す事は出来んぞよ。これ程大望な昔からの仕組みを、今になりて変わるような事を致して居りたら、二度目の世の立て替えの、大きな仕組みが成就致さんぞよ。根本から大洗濯を致して、末代世界の苦ぜつが無いように致して、外国の害をするみたまが、学でこの世を暗闇にしてしもうて、正味の無いカラの教えやら仏のやり方は、世の大元からの教えで無い、途中から出来たものは末代の世のやり方には用いんぞよ。

 今の日本の上に立ちて居る守護神は、外国の学ほど結構なものは無いと申して、日本へ渡りて来られんみたまが、日本の神の御血筋を抱き込みて、好きすっぽうに致して、この先をモ一つ悪を強くして、悪で末代立て行こうとの、エライ目的でありたなれど、モウ悪の霊や仏霊の世の終わりと成りたぞよ。本の日本へ世が戻りて、天と地との先祖が末代の世を持たねば、ほかのみたまではこの世は続かん、口舌の絶えると云う事は無いぞよ。外国のみたまの守護神では、途中から世が乱れて、行きも戻りも成らんのが、今の事であるぞよ(注1)。

 ※ (注1) 三一書房の注  「天の巻」では、「外国の霊魂…………あるぞよ」がない。




 大国常立尊が変性男子のみたまの宿りて居る肉体を借りて、末代の世を受け取りて、世の元の生粋の誠の生き神ばかりが表に現れて、天地の先祖の御手伝いで数は少ないなれど、神力(しんりき)は御一柱(おひとかた)の生き神の御手伝いが在り出しても、みたまの神が何程沢山でも、元の誠の生き神の力には叶わんから、同じ様な事を申して、細々と今に続いて知らして居るなれど、途中に出来た枝の神やら、外国から渡りて来て居る、修行(ぎょう)無しの我良しのやり方の守護神では、日本の肝心の事は解りは致さんぞよ。誠の事の解る綾部の大本へ出て来て、いろはからの勉強を致さねば、学は金を入れただけの力は出るなれど、天から貰うたみたまに付いた、生まれ付きの力で無いから、仏事の世の間は結構で在りなれど、モウ仏事の世の終わりと成りたから、今までの学では二度目の世の立て替えにはチット間に合わんぞよ。

            (「神霊界」大正六年七月一日号)

 ※ この大本神諭も、筆先の言葉使いと違う箇所が見うけられますが、今となっては確かめようが在りませんので、読まれた方が判断してください。三一書房の注にあるように、王仁三郎が筆先の文面を変えて発表した大本神諭が在る事、それを常に頭に置いていただきたいとおもいます。




   
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2019年01月29日

天地へ不孝となるから、

 大正四年十二月十七日

 こんどの二度目の世の立て替えの善い名と悪い名とが末代残りて、善いこと致して名の残る人がでける世界の大本であるから、どうぞよい名を皆残すように、悪いかがみに(見本・手本に)ならんように、ここまで延ばしたのであるぞよ。

           (「大本神諭」第五集)

















 

 大正四年十二月二十六日

 大国常立尊変性男子のみたまが大出口の大神に現れて、三千世界のみたまの立て替え立て直しを始めるから、世界が何かの事が一度になりて来て、何も良き事も世界のめぐりのひどい所には、嫌な事がある、めぐりのひどい所には何もなしに済ますと云う事が出来んから、大難を小難に致してやりて、これで済みたと云う事に致して、三段に分けてあるみたまに、それぞれに目鼻をつけて後の立て直し何につけ後の立て直しが中々の大望であるから、世界の洗濯とみたまの洗濯とが一度になると申してあるぞよ。暑い寒いのよさは無いぞよ。何かの事が一度になりて一さくに致さねば長くかかりて居りたら、いかん事がありてはならんから、日本の元からの仕組み通りに致さんと、長くかかりて居ると、仕組みの変わる事が無いにも限らんから、日本の元からの仕組み通りに一さくに致して、これ迄は仏事の霊でありたから、日本の国には使われん仏事の霊は悪神の霊であるから、これ程日本の国が悪く成りたのであるぞよ。

 ※ 一番に問題にしたいのがみろく様の事です。大日如来としてあり天之御中主神としてありますが、何れも「仏事の霊」であります。

 私は、前に、「私の大望な務めは、大神様に石清水八幡宮を御返しすることです」と、このブログ記事で言いました。その大神様が、筆先によって現れてくださいました。古代の藤原氏の仏事の霊では断じて無く、新道(しんどう)のみろく大神を迎えられた事を、大変に名誉な事と慶んでおります。




 みたまの良いみたまは、解るのも早いなれど、みたまの性来の悪いのが悪い思案を近慾思うてしくじるみたまがたっぴつ在るから、それは我の心であるぞよ。何処を恨めるとこは無いぞよ。我のみたまの性来の悪いので、も一つは肉体の心で良くなろと思うようになるのも、心の持ち方一つであると申して、明治二十五年からここになりて来た折りに、心の改心を致してみたまを磨いて居るように続いて、耳に蛸の出来る程嫌がられても、まだ気を付けてありたが、その世が参りて来て、申して知らした事が差し迫りて来て、動きの取れん事になりて、来るのは良く分かりて居るから、今迄に日々に知らしてあるが、そうなりて来た折りに、悦ばしたいと思うて今に気を付けて書いて見せても、気もつかず、云うてやりても判りもせず、申した事は出て来るに決まりて居るから、そうなりて来た折りに心配顔を見るのがこの方(神さま)も直も嫌であるから、皆に気が付けてあるのは、わからんみたまは我の心で身を責めるのであるぞよ。


 何事も気を付ける間に気が付かんと、取りかやし(かえし)の出来ん事がありては総損ないに神も仏事も人民も悪いみたまありては天地へ不孝となるから気を付ける間に改心を致されよ。何程元の根本の先祖が神力がありても、下を働く番頭が悪かりたら(かったら)、先祖のここまで致して来た徳がわからんから、今度の二度目の世の立て替えは数はいらんから、世の元の生粋のやまと魂の正直ばかりを今度立て替えを致したら、生粋の世の元のやまと魂にしてしまうから、実地の御用は元の生粋でないと、誠の御用は出来んから、世の元の生粋は数は少ないなれど、天地の元の先祖が手伝えば、どんな事でも出来るから、数はいらんと申すのであるから、いつまでも同じ事をいわして改心致さんと、悪いみたまに懸かりて居ると、肝腎の事が遅くなりて、肝腎の霊の本の一厘の大事の仕組みの邪魔になる様な行いを致したみたまは規則通りに致すぞよ。

 今の守護神の気に入る様な事をして居りたら、後の立て直しは出来は致さんぞよ。世の元の根本の元の生き神がすっくり現れると、へどろいみたまに使われて居る肉体は、御用どころかうろたえて、厄介のかからん様に腹帯をしっかりしめて居らんと、小さい肝玉は間に合わんぞよと、毎度気が付けてあるが、余りなずんだらなみたまばかりで間に合わんみたま八九分あるが、間に合わんみたまをのうして(無くして)しまうなら、埒(らち)がよいなれど、それでは善とは申されず、これだけのみたまに目鼻を付けるのは何よりも大望であるから、天地の先祖の心をちと思いやりのあるみたまでありたならば、早う良くして悦ばしてやるなれど、余り我よしのみたまは良くしてやりたいは一杯なれど、水心あれば魚心があると云う事があるが、心なしには良いお蔭も貰えんぞよ。

            (「大本年表」分類九ノ一三九~一四五)

 ※ 大正四年の大本神諭はこれで終わりです。



             
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