
この神諭は『神霊界』に載せられたものです。今はこの不自然さを書いて置く方がよいだろうとおもい、お知らせしておきます。
大正五年九月二日
五六七(みろく)様が永らくの間仏事の御守護でおいでましたが、天では弥勒菩薩と仏事の御守護なり、地の世界ではだるま様と御生まれなされて禅宗を御開きなされ、人のみたまを研いて居られたが、何かの時節が参りて来て、元のみろく様の良い世に戻る時節に成りて来たのであるぞよ。
※ 京都の宇治市に禅宗の有名なお寺があり、そこに大きな布袋尊があります。布袋さんは弥勒菩薩として、中国では扱われるそうです。私の家に何故か、もう大分前の若い時に淡路島のホテルで買った布袋さんがいます。なぜ買ったのか、いまだに理由が分かりません。
大国常立尊永い間押し込められて居りたなれど、みろく様の世に世が戻る時節がまわりて来て、天地が揃うて来たぞよ。大本のみろく様の世は、神世と申して良い世でありたのを、こういう状態に世がなりたのも、皆時節であるぞよ。
日本の国は霊の本(ひのもと)のはじまりの国であるから、仏事では世が立ちては行かん、尊い霊の本であるから、やはりこの世には善と悪とをこしらえて、どちらで世が立ちて行くという事を、末代の世を続かせねばならんから、善のやり方はこのやり方、悪のやり方は仏事の学でどんな事でも出来るなれど、仏事では末代の世は続いては行かんと云う事を、今度分けて見せてやるぞよ。末代の世をつぶす事はならんから、いくらで末代の世が続くという事をして見せてやるぞよ。
悪が末代このままでやりて行こうと思うての企みは良いが、一通りのみたまでは末代の世は持ちて行けんし、悪ではなお持てんし、天の大神様の御真似が出来んと、この世口舌の無い世に致して、世を持ちて行く事は出来んぞよ。一通りのみたまで行も致さずに、どないして居りても、この世が持ちて行けると思うて居るが、今に大きなドエライ間違いが出来て来るぞよ。その事が天地の元をこしらえた天地の先祖は、根本の事から行く末の事、末代の事が見え透いて居りて、これだけ暮れたらこのみたまがこういう目的を立てるとい事は初発からよく判りて居るから、ここになる事は出来ぬぞよ。チト違うた事がありたら、元に戻る事はならんのであるなれど、元のみろく様の御艱難の御徳で、地の先祖もみろく様の御蔭で、結構な行(ぎょう)させて戴いた御蔭で、元の御役をさせて御貰い申す世が参りて来たのであるから、行無しにはまことの事は出来んぞよ。
※ 続きます。