2019年06月28日

ありがとうございました。

1559633119124.jpg 『大本史料集成』の「Ⅰ思想篇」(三一書房・1982年6月)に収められた大本神諭の書き写しを始めたのは、石渡信一郎さんの古代史を書き写してからの事でした。私はその前に「私は大本の「神舞台」の事が判った」と偉そうに書いてしまったので、今はもう無い「京都府立総合資料館」で、この三一書房発刊の『大本史料集成』に出会ってしまいました。

 私はすぐに「やっぱり来たか」と思ったのです。子供の頃から私は、こんな風な「出会い」には割りと腹が出来ているのです。でも、やはり不安はありました。私は、他の人の事は分からないのですが、おそらく人はこんな時、たいがい下調べをして自信がついた頃に書き始めるのだとおもいます。しかし私は、そんな事はした事が無いのです。自信とか、勉強だとか、そんな風な事は邪魔くさいのでしないのです。遠くに行くにもそうで、ちゃんとした調べはしません。何故か、邪魔くさいと言えばそうなのですが、苦にもなりません。

 ですが、「やっぱり来たか」とはおもうのです。そして、まったく大胆と言えばそうで、大胆な行動を取るのがいつもの私です。私は、自分の大本神諭への仮説、それが正しいかどうか、いや「正しい事の証明」と言った方が文字通り正しいのですが、それをやろうと、あまり考えもせずにやってしまったのです。



 さて、最初から私解の大本神諭を一緒に読んで戴いた人もおられるとおもいます。私はわたしの大本神諭を書いて来ましたが、皆さんはそれぞれの大本神諭を生きてください。長い時間を共にさせて戴いた事を感謝致します。大胆な行動の男ですが、やはり、読んで戴いてる人が居ないと「邪魔くさがり」が出ていたとおもいます。本当にありがとうございました。

 しばらく休みまして、次を考えようとおもいます。考えが浮かばなかったら、その時(9月頃)にはまた報告をします。
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2019年06月27日

そして、これが最後の筆先です。

 大正七年七月二十四日

 世の元の根本のことからを、お筆先に変性男子の手で、変性女子が説いて聞かせる時節が参りて来たから、変性女子が、この世へ出て居れる方の学のほうの事は何知らんことの無いように、書物から何も調べさしてあるぞよ。この世の事、これ迄に分からなんだ事から、幽界(ゆうかい)の事から、この世はじまりの事が、ありやかに説いて聞かせる時節が周りて来たぞよ。

 善と悪との変わり目の境(さかい)の大峠となりて来て、悪のこれ程栄えて居る世を、昔の根本の世へ善一つの世へ世をねじ直して、心やすき世に致して、元の神世に世を戻すぞよ。世と申すのは世界のみたまの事であるぞよ。

 みろく様の世というのは穏やかな良い世であるぞよ。みろく様の善一つの誠の強い世であるぞよ。これより知らせる事はもう無いから、この上は人民の心でお蔭を取るのざぞよ。もう知らせる事は無いぞよ。

 この世界の生きあるものは皆天地の先祖からこしらえてあるのであるから、人民がこしらえたので無いぞよ。人民力(じんみんりき)ではでけんから、何事も天地の元の根本の元の先祖が、この世の事は昔の根本の事から、行く末の事、末代の事、みな天地の先祖が何も仕組みてある事が、世界には時節が周りて来るのであるぞよ。

 綾部の大本の信心は、われの事は思わずと、初発(しょっぱつ)から神に心を任してしもうて、めんめの事は心配をいたさいでも、神にもたれて居りたら、人民の事は神が致すから、楽に何かの事が心配無しに思うように行けるのが、神の神力であるぞよ。

 申すようにいたして産の心に心を持ち変えて、神心になりておると、何事も神力で思うように行き出すから、汚い心を放り出して大河へ流してしまうが良いぞよ。

 大出口なお八十三才のおりのおん筆先であるぞよ。善と悪との変わり目の折りぞよ。

            (「大本神諭」第五集)




 ※ 大本神諭の書き写しは終りました。大切な時間でした。ありがとうございました。
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2019年06月26日

大望な二度目の世の立て替えであるから、

 今度の二度目の世の立て替えは、大初(むかし)の事から、天と地と世界中の事から、この世へ出てお出る神の因縁から、守護神の性来の事から、何も一切の事を速やかに改めを致して、三段にわけてあるみたまの性来の事から、何かの事、神界(かみ)、仏界(ぶつじ)、人民、鳥類、畜類、餓鬼に成りて居るものまでも助けな成らん大望な二度目の立て替えであるから、何につけても、大望ばかりであるぞよ。

 この先は何かの事が早う成りて来るから申すように致されよ。世は持ち切りには致させんぞよ。世はグルグルと変わるから、何も時節には敵わんから、従う所へは従うて早う往生を致さんと、後回しにしられたら敵わんぞよ。慢心を致して頑張りて居る程後回しと成るから、素直に致せば霊の入れ替えをしてやりて、改心の出来たみたまから大本へ引き寄して天地の御用を致せば、この世にこれ程結構な事は無いぞよ。悪では日本のお土の上には、ちょっとの場の上にも置いて貰えん時節が周りて来たから、日本の内に居りたくば、今のうちに素直に致してくだされよ。天地の間に発生(わか)してある皆類の者である。破滅(つつぼ)にはしとも無いなれど、われの心で破滅に成らんように致されよ。

 これ迄の世のやり方は表面(うえ)から見ては立派にありたなれど、余り贅沢過ぎて世が持って行けんから、金銭(きん)を只出来たように思うて、衣類、道具を飾り立てて、天地へ冥賀の程が恐ろしいから、これ迄は天地の御恩と云う事がちっとも分かりて居らなんだから、肝腎のみろく様御夫妻様、天照皇太神宮殿、御三体の大神様の御神力という事をさほどに思わずと、われの力で何事もやりて行けるように思うて居りた事が、何かの事が大間違いで、この世の息ある者はどうして出来たという事も分かろまい。天地の大神様の御三体の大神様の日々の御心の分かりたみたまが無かりた故に永い間の悔しき事も分からず、地の世界の先祖を力有り過ぎてお邪魔に成ると申して押し込めて、ここまでは蔭の守護でありたなれど、蔭の守護ではもう行けぬから、霊の出の守護とあい代わりて、この先はお三体の大神様の御威徳を、日本の霊の本の仕組み通りに何かの事を致して埒良う致して、日本の国の神徳と向こうの国の学力との力競べの、国と国と、神と神とのおお戦いであるから、勝ちた方へ従わねば成らん正念場であるぞよ。

 外国の七尾も八尾もある王を平らげて、

 ※ 「七尾も八尾も」はこれまで、「七王も八王も」としてもありました。筆先はひらがなの文章ですので、このような「尾」と「王」で、どちらも「お」ないしは「おう」のひらがなの漢字を充てる事が可能です。王仁三郎が「尾」にしたのは、筆先にあるように外国は獣の世であるという事から来ています。「尾」は獣の尾です。また、外国の王の守護神の実体をも言い表しています。



 一つの王の元の天地の王で治めるぞよ。

 ※ 「王」を神として読むと意味がはっきりとします。



 十分気が付けてあるから、もう気の付けようが無いから、何かの実地を始めるから、不足を申してくれなよ天と地との先祖がここまでに何かの事に気が付けて知らしてあるぞよ。まだ取違いをして悪い鏡に成らんようにして下されよ。今度取違いをして、悪い鏡に成りたら、世界中へ面目無うて何言うこともできず、悶死を致すより仕様無いぞよ。余り頑張らんと素直に致さんと、この先はこれ迄の格合(かくあ)いには行かんぞよ。止(とど)めの大峠(おおとうげ)と成りてから、これ迄の事をどの様にでもお詫びを致しますで許して下されと申して来ても、モーそんな事にはかかりて居れんぞよ。

 何もお筆先通りに世界が周りて来たから、この先はめんめに我が身の心を考えて見て、心の事を我(われ)がさにわ(審判)を致すように成らんと、お蔭は取れんぞよ。神は何程でもお蔭は渡すから、お蔭取るのは我の心で取るのであるぞよ。腹の中に誠という誰がどう申しても、誠がありたらビクリとも致さんのが誠であるから、この世には誠ほど強いものが無いから、誠の心に持ちかえて、これ迄の心は大川へ流してしまえと申して、お筆先で毎度知らしてある誠の心に持ちかえんと誠のお蔭が取れんから、誠、誠と申すのぢゃ。

 誠の生き花が咲く世になりて来て居るのに、正味の無いハイカラの心では二度目の世の立て替えを致したら、これ迄のやり方はちっとも用いられんように大変わりが致すぞよ。天地の大神様は今のやり方をお嫌いなさるから、日本の国は今のハイカラを誠にお嫌い遊ばすから、何かのやり方から心を、昔の根本のやり方に程なく返さすから、今が変わり目で何かの事がむつかしいなれど、この先は申してあるように何かの事が一度に成りて来て、一度に開く梅の花、筆先通りに成りて来て、世界は一日増しに騒がしうなるぞよ。


 
 これ迄は天の大神様をこの世にはどうでもよい、われが神であるというような、何も分からん我よしのやり方、御苦労致された天の御先祖様も、日の大神様も、天照皇大神宮殿も、地の世界の先祖も、元の大神、天の大神様の御艱難の思いという事を知らずに、

 ※ ここにそれぞれの大神様の名前が書かれています。私解しますと、「天の御先祖様」=みろく様、「日の大神様」=太陽、「天照皇大神宮殿」=伊勢の表の神様、であります。何度も書いて置きますが、伊勢の内宮の神は「日の大神様」つまり、太陽神ではありません。「皇」とあるように、天皇家の祖先であります。表の神様と書いたのは、表は神道でまつってありますが、裏は仏教の大日如来が実体であるからです。故に、この世の人間の神まつりは誤っており、神を神として正しくまつれていないばかりか、自分たちの都合の良いように利用しているのです。これが私解では、大神様の名前をあえてそれぞれ別々に書かれた理由だとおもいます。私たちに気付かせようとされているのです。



 この世がぬしがで(自然)に出来たように思うて、苦労無しの向こうの守護神が、余り大きな取違いを今にして居りて、元の大神様の御恩を知りた守護神が一人も無いというようなむごい事に世界中の守護神が成りて今の難渋、大神様の御守護で、ここまでは結構に、天からはみろく様は御水の御守護、日の大神様は火の御守護遊ばすのが人民では分かろまいがな。分かりた人民一人でもあるなら、改心致してみたまにちっとも曇りの無いように水晶に磨いて来たら、大本にはしょうまつ(事実)があるから………。大本の中には六年後から、ありやかな勿体ない事がありて一日増しに結構が出来るのに………。

 この事は二階に大神様をお祭りがしてある折りに、勿体なくも天照皇太神宮様が大出口直にお移り遊ばして、直が余り大望な御役であるから、三体の大神様が下へ降り上がりを致して、手伝いをしてやらんと、余り大望な御用であるとお言葉を戴いた事が、六年後から大本の中にもお邸の内に実地(しょうまつ)のお姿が、彼方此方にお出でますなれど、余り曇りた世の中であるから、この中おやしきを余程清らかにして、男も女も生き神ばかりの中に居るのであるぞよ。

 この大本は他の教会とは違うから、世の元の実地の生き神ばかりであるから、一通りの事を思うて居ると大間違いが出来ては成らんから、その心でこの中を清らかに致されよ。世の元の根本の大神は、天も構い地の世界も構い、御水と御火と、お土とで、この世が立ちて行くのであるぞよ。

            (「神霊界」大正七年十一月一日号)




 

 
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