2019年07月12日

被差別部落の起源

1562550524969.jpg 東大寺の大仏を誇りとおもう人たちがいるだろう。しかし、ちょっと歴史の闇を暴いたら、大仏は世を救うために造られたのではないことが見えてくるのだ。歴史とは全くの闇である。故に私の祖先が忘れ去られている。蝦夷(エミシ)という言葉を、どれだけの人が知っているだろう。部落ということすら今の人たちは知らない。でも、私たちが知らない事で、苦しんだり悲しんだり、死にたくなってしまう人たちが居るのが現実だ。


 


 『日本古代国家と部落の起源』(石渡信一郎著・三一書房1994)には、行方不明になったエミシの人数について次のように述べられている。(P30~)

 「……………八、九世紀に、日高見国全域と出羽で合計四万人~五万人前後のエミシが行方不明になったことになる。……………

 もっとも、この数字は、きわめて大まかなものなので、将来この問題についての研究が進めば、これよりもはるかに正確な数字が算出されると思われる。しかし、四万~五万人前後という、この数字は、少なめにみてあるので、将来上方修正されることはあっても、大幅に下方修正されることは決してないであろう。したがって、私は、ここで次のように指摘しておきたい。

 八世紀から九世紀初めにかけて、日高見国(岩手県全域と宮城県北部)とその周辺の出羽国のエミシが行方不明となっているが、その数は数万人に及ぶと推測される。

 では、これらのエミシの行方を追うことは可能であろうか。答は、イエスである。……………」



 
 


 エミシの行方不明者について、ヤマトの国が記録してきたことは無いが、「貴重な記録」があるのだと石渡さんは述べる。(P32~)

 

 「消えたエミシの行方を追うための貴重な記録というのは、『続日本後紀』(しょくにほんこうき)弘仁2年(811)10月13日条にみえる、嵯峨天皇の勅である。…………

 (現代語で書き写します) 「蝦夷は、将軍らの申請通り、中国に移配せよ。ただ、俘囚(ふしゅう・捕虜)は便宜を考慮して(京まで連れて来るのも手間がかかるので)、その土地に置き、よく教喩(きょうゆ・おしえさとす)を加えて、騒ぎを起こさせないようにせよ。また、新たに捕らえられた蝦夷は、早く進上せよ。ただし、彼らの数が非常に多く、道中は困難であろう、強壮な者は歩行させ、体が弱い者には馬を与えよ。」


 この勅の中で、「蝦夷」と「俘囚」がはっきりと区別されている点に注意していただきたい。按察使(あぜち・地方行政の監督官)の綿麻呂の報告の「斬獲(ざんかく※)稍(やや)多く、帰降少なからず」と合わせ考えると、この「蝦夷」は「斬獲」の「獲」、「俘囚」は「帰降」にあたると思われる。

 ※ 斬獲 斬り殺し或いは生け捕ること。  帰降 戦いに敗れて敵に従うこと。降参。



 「新獲の夷」は前述の「蝦夷」を言い換えたもので、天皇に「進上せよ」と命じられているところから、この捕虜のエミシは畿内方面に連行されたものと考えられる。

 ※ 嵯峨天皇といえば、あの空海の熱烈な支持者である。畿内方面に連れて来られた蝦夷は、高野山(816年金剛峯寺創建、819年金剛峯寺金堂、825年東寺講堂)などの創建工事に酷使されたのだろうか。そう歴史を見ると、何も知らないで通学路に東寺を歩いていたことにゾッとする。




 「蝦夷」が、 このように移配されたのは、律令国家の軍と戦ったため、移配という刑罰の対象となったとみられる。

 ※ 私は、祖父の祖先が、このような経過で天皇の奴隷=官賤民(後の被差別部落民)としてヤマトに連れて来られたのだと考えています。天皇が進めたい「大型工事」の労働力に、東大寺の回廊工事その他に、物資搬送の拠点であった古代の飛彈に、蝦夷の戦士たちは強制的に住まわせられたのです。




 これに対して、「俘囚」は、「当土に安置」されたところから考えて、律令国家と戦わなかったので、移配という刑罰を受けなかったと思われる。………」

 ※ 被差別部落民として生まれた私たちが、自らの出自を呪うことは、極悪な古代律令国家を肯定し、反対に祖先たちの戦いを否定することにつながります。あの忌まわしい大仏の宗教を認め、極悪なる国家とそれを支え続けた国の宗教を認めることになります。今も苦しみ嘆く有り様を、子孫の私たちが認めたり妥協するなら、また関心を持たないとすれば、虐げられた祖先たちが浮かばれるはずが無いのです。

 私たちは、被差別部落民として生まれて、この国のめぐりをとるべく生かされて来たのです。そう生きるなら、私たちこそ世の悪と戦う戦士でありましょう。祖先の戦いを引き継ぐ勇敢な戦士となりましょう。


 (終わり)







 
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2019年07月11日

宗教の中にある極悪

1562475843535.jpg 『八幡神の正体 もし応神が百済人であったとすれば』林 順治著(三一書房・2012) P79~



 ▼ 八幡神託の画策者はだれか

 銭4000貫寄進した陽候史真身(やこのふみまみ)の一族について、民俗学者の山折哲雄は次のように述べています。
 「陽候あるいは陽胡史氏は渡来系氏族で、写経所に仕える経師が多く、彼らは左京に住む下級官人であった。720年(養老4)の隼人の乱は、大隅隼人直坂麻呂による大隅国守陽候史麻呂(やこのふみまろ)の殺害に始まり、征隼人持節大将軍大伴旅人、副将軍笠御室、巨勢真人の派遣で収拾した。陽候兄弟の銭4000貫は、大仏の知識銭として献じられたものであったろう」

 ところが、『八幡神の神託』の著者清輔道生(きよすけみちお)氏は、百済王敬福が献上した金九百両のうちから一二〇両(約12・6キロ)が4月末に八幡宮に奉献されたとみています。清輔氏の以下の指摘は『扶桑略記抄(二)』と『東大寺要録(四)』にもとづいています。

 清輔氏によれば、聖武天皇が東大寺の大仏造立の成就祈願のため八幡宮に勅使を送りますが、八幡大神が八百万神を率いて大仏造立成就に尽力するという「天平十九年の託宣」や黄金が国内に出現するという「同二〇年の託宣」は、いかに神通力自在の八幡大神でも不可能だと指摘します。

 ※ 私的に書けば、先の良弁などの金採りのリーダーに現地で使われた発掘隊がいて、日本の要所の山々が調べられていたのです。この金ゆえに、どれだけの人の血が流されたのか、想像しておもいをするべきです。それにしても八幡神は、神々の中にあっても最悪の極悪です。



 

 したがって清輔道生氏は、神託を画策したのは天平20年(748)8月17日条(『続紀』)に記されている従八位上の八幡大神(宇佐八幡宮)祝部(はふりべ)大神宅女(おおがやかめ)と同大神社女(もりめ)とみています。二人は従八位上から外従五位下に昇進しているからです。また、天平勝宝元年11月条(『続紀』)に、禰宜(ねぎ・神官の位)外従五位下の大神社女と主神(かんずかさ)八位下の大神田麻呂が大神朝臣の姓を賜っていることから、大神田麻呂もその一味としています。

 何故なら、祝部大神宅女と社女が伝えた託宣どおりに国内から黄金が出土したばかりか、八幡大神に黄金一二〇両も献上され、しかも託宣者大神氏に、叙位賜姓まで行われているからです。大神氏に与えられた「朝臣」は「八色(やぐさ)の姓(かばね)」の第二位です。しかし、誰かが大神氏に事前に正確な情報を伝えていなければできないはずです。しかも、陸奥国産金の知識を持ち、百済王敬福との関係もなければなりません。その誰かを清輔氏は、僧良弁(※)とみています。

 ※ 写真の良弁像について説明します。『日本美術全集 運慶と快慶 鎌倉の建築・彫刻』(講談社・1991)からの物ですが、良弁像についてこう述べられています。「平安時代の肖像彫刻は、まず何よりも、リアリズムの追求に欠けるという点が特徴的である。例えば、十一世紀に制作された、東大寺の初代別当、良弁(ろうべん)僧正(689~773)の像には、見るものに良弁その人を彷彿させるような実物らしさをつくり出そうとする意志は見られない。そのしわや、しかめた口元にはたしかにその人固有の性格がにじみ出てはいるが、頭部の造形は一般化されていて、着衣の文様は幾何学的である。」 『俊乗房重源と仏教美術のルネサンス』 ジョン・ローゼンフィールド 

 つまり、この良弁像が僧良弁その人を表しているとは言えない、ということだとおもいます。では、何ゆえにこういう像が、時代を下ってから造られたのかを考えずにはいられません。これは「時代の手直し」であり、歴史が後になってもこうして、作られてきた、再生産されて来たんだということを表しているのです。明治になって、『紀記』の世界観=国家神道が作られたように、権力者たちは「歴史の整合性」=「時代の手直し」ばかりに気をとられて来た事がよく判るのです。今だってそうです。特にNHKの歴史番組は、私達に歴史の再教育を行っています。




 

  ▼ 陰の立役者 僧良弁

 良弁は出自不明の僧ですが、義淵(643~728)を師として法相宗(※)を学んだことは確かとされています。

 ※ 法相宗は興福寺・薬師寺の宗派で、ある時までは法隆寺までがこの法相宗でした。奈良の寺は法相宗が主だったのです。また、京都の清水寺、私の町の善法律寺も、ある時までは法相宗の寺でした。彼ら法相宗の僧が、良弁にみられるように、陰で暗躍した事も頭に入れて置くべきです。それがあの、東大寺の平家による焼き討ちにまでつながるからです。



 

 良弁は百済系渡来人の末裔とされ、のち仏教界の領袖とされる大僧都(だいそうず)まで昇進します。良弁は聖武天皇の引き立てによって、天平5年(735)の行基が大僧生に任じられた時に律師(りっし)になっています。その年、良弁は、豊前国宇佐の小倉山に派遣されます。このときの小倉山の女禰宜(ねぎ)は辛島勝波豆女(からしまのかわとめ)で、祝(はふり)は大神田麻呂です。

 良弁は大神氏の始祖大神比義と同じ百済系渡来氏族で、鍛冶(※・かじ)集団を出自とすると言われています。
 
 ※ 鍛冶とは、金属を熱して打ちきたえ物を作ること、と辞書にあります。私の町の石清水八幡宮の山のふもとに、この「鍛冶」を神として奉った場所があります。何の事はありません。全部、実は「金」につながっています。



 というのは良弁は、金鷲(こんしゅう)行者(ぎょうじゃ)(別名、金鐘・金塾・金勝)の名を持ち、比義の金鷲行者(別名、金鳩(※))と類似しているからです。

 ※ 金鳩は、八幡宮の鳩のことです。



 金鷲も金鷹も金鳩も「金の鳥」、すなわち「金採り」を意味するからです。

 良弁が、近江国粟田郡金勝山・太神(たのかみ)山(現・滋賀県栗東市付近)で山林修行中に金を発見したことは、金鷲(比義)が豊後国日田郡仲津の洞(大分県日田市中津江村の鯛生金山)で金を発見したことに似ています。

 ※ もう一度書いて置きます。金の採掘調査隊が作られていて、全国の山々が調べられていたのです。どこにも書いて残してはいませんが、渡来侵略軍が日本列島に来て自らの国を建てた本当の狙いは、この金の採掘にあったのです。この視点で国を、エミシへの攻撃を、宗教に於ける山岳修行の高まりを捉えないと、真の姿は何も見えはしません。ヤマトを「山の戸」とすると、意味は「山にわけ入る入口」であり、山の麓(ふもと)=ヤマトとしても、同じく「山に入る入口」が麓ですから、ヤマトは山と切れません。「山を神聖視した」との理屈ですが、彼らには文字通り山は「宝の山」だったのです。




 陸奥国小田郡の黄金出土の情報は、すばやく良弁の耳に入り、陸奥国守百済王(くだらのこにきし)敬福(きょうふく)は、良弁の指示によって指定日に多量の黄金出土の奏上と献上にいたったのです。良弁が自己の身分・地位を不動のものとするためには、さらに八幡大神を上京させることでした。


 陸奥国からの金の進上に気をよくした朝廷は三年の調・庸を免除し、金の発掘に貢献した陸奥国介(すけ・役職名)、大掾、金を獲た丈部(はせつかべ)大麻呂、小田郡の丸子(わにこ)連(むらじ)宮麻呂、金の出た山の神主日下部深淵(黄金神社)らに叙位しました。さらに同じ日に、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺の五寺と、法隆寺・弘福寺(ぐふくじ=川原寺)・四天王寺の三寺、ほかに崇福寺・香山薬師寺・建興寺(豊浦寺)・法華寺などにそれぞれの規模にしたがってあしぎぬ・真綿・稲・墾田を喜捨します。




 ▼ 八幡神、東大寺の守護神となる

 ………………11月1日、八幡大神(宇佐八幡)の禰宜・外従五位下の大神社女(おおがもりめ)、主神司(かんづかさ)の従八位大神田麻呂の二人に氏姓を賜ります。11月19日、八幡大神は託宣して京に向かいました。参議の石川朝臣年足と藤原朝臣魚名(藤原不比等の孫、房前の子)を迎神使とし、八幡大神が通過する国での殺生を禁じます。

 12月18日、官人10人と散位20人、六衛府の舎人それぞれ20人を派遣して、八幡神を平群郡(へぐりぐん・現・生駒市、生駒郡一帯)に迎えます。この日八幡神は京に入ると天皇(孝謙)・太上天皇(聖武)・皇太后(光明子)も同じく行幸します。12月27日、八幡大神の禰宜尼・大神朝臣社女は、天皇と同じ紫色の輿に乗って東大寺に参拝します。

 この日、孝謙天皇・太上(聖武)・皇太后(光明子)に続き、百官およびすべてが東大寺に集まりました。僧5000人を講じ、大唐楽・渤海楽・呉舞と五節の田舞・久米舞を上演させ八幡大神に一品、比咩神に二品を賜ったのです。

 ※ 7月5日、年に二回ある「俊乗堂」の拝観で、快慶さんの阿弥陀如来像を見るために東大寺境内に行きました。近鉄奈良駅から「トンネル」をくぐる道を歩きました。なんと、大きな歩道は外国人と鹿に占領されて、外国人が与える煎餅の食べ過ぎでか、歩道は鹿の糞だらけになっていました。多くの外国人でおもうように歩けずに、鹿の糞を避けて歩きましたが、快慶さんの仏像を見ていると心が鎮まり、「真実に会うとはまこと、あのような道を行くことか」と解りました。


  

 

 
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2019年07月10日

すべてはここから始まった

1562223252709.jpg さて、祖父が生まれた「飛彈坂所」が、歴史に登場するのは「天平勝宝8年(756)孝謙天皇が飛彈坂所を東大寺に与える」というものです。孝謙天皇は父の聖武天皇がこの年(756)に亡くなったので、翌年の一周忌法会のために、父の聖武天皇が造ってきた東大寺の大佛殿の回廊の造営を決めます。飛彈坂所は物資輸送の基地として運河を利用した「船津」として、多くの労働力を必要とした場所だったようです。

 

 私は、石渡信一郎さんが言うように、被差別部落の人々は東北地方に住んでいたエミシと律令国家から呼ばれた人々であり、「部落の源流は、律令国家(日本)の侵略に対して、何も抵抗せずに帰順したエミシの俘囚(ふしゅう)ではなくて、抗戦して捕らえられたエミシの戦士である」(『日本古代国家と部落の起源』1994年三一書房)と考えています。であるからこそ、思い出していただきたいのは、部落民の解放を願い大正11年(1922)創立された運動団体の「水平社」(すいへいしゃ)運動が、奈良の地で高らかに産声をあげたという歴史の事実であり、必然性です。

 

 日本(ヤマト)の天皇は、自らとその親族の為に大佛を欲し、その労働力に奴隷としてエミシの戦士たちを強制して連れて来たのです。国家の鎮護(ちんご)と御大層な理屈をならべ、その大佛の守護に八幡神を指名したのです。仏も神も悪ではありませんか。




 『八幡神の正体』(林 順治著・彩流社・2012) より

 (その前………) P70~
 
 ▼ 長屋王の自殺と光明皇后(安宿媛)の即位

 養老4年(720)8月3日、病気療養中の藤原不比等が亡くなったので、長屋王(684?~729)が右大臣に就きます。長屋王は高市皇子の子で、天武天皇の孫です。その長屋王が聖武天皇即位の際に、藤原宮子(みやこ・聖武の母)に大夫人(おおきさき)の称号を授けられたのに対して「令制に皇太夫人(ぶじん)の称はあるが、大夫人の称はない。勅によると令制度に反し、令制に従うと違勅になる」と苦言を呈しました(※)。

 ※ 長い間の藤原不比等による圧政がやっと終わり、長屋王は、藤原兄弟に対してたたかいを挑んだようです。



 聖武天皇即位の詔(みことのり)は『続紀』神亀元年(724)2月4日条に載っていますが、この日、叙位が行われて長屋王は正二位、藤原武智麻呂・房前兄弟は正三位に叙位され、長屋王は右大臣から左大臣になり、太政官の最高責任者となります。 長屋王の問題の苦言は、「天皇は勅して正一位の藤原夫人(宮子)を大夫人(おおきさき)と称することにした」(『続紀』)という叙位の翌々日の天皇の勅に対してなされたものです。

 この長屋王の苦言が尾を引き、五年後の神亀6年(729)2月、長屋王は藤原グループに謀反の疑いをかけられます。…………聖武天皇は藤原宇合(うまがい)らに長屋王の宅を包囲させたので、長屋王は自殺(※)します。……………

 ※ 長屋王は妻の吉備内親王、息子の膳(かしわで)王・桑田王・葛木王・鈎取王を道ずれに首をくくって死にます。



 

 ▼ 懺悔の思想から生まれた国家鎮護の宗教

 …………安宿媛(あすかべひめ※)の「光明子」という名が、金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)第五滅業障品の第三会(え)の説法に登場する福宝光明子女から採られていることはあまり知られていません。「世尊(仏)から福宝光明子女は未来において仏になり、世に尊敬される者という名の世尊にいたる10の呼び名を受けるだろうと予言された」と金光明最勝王経に書かれています。

 ※ 「光明子」(こうみょうし)と呼ばれた安宿媛は、藤原不比等と橘三千代との間の子です。この人が聖武天皇妃です。聖武天皇のお母さんも実は藤原不比等の娘です。名は宮子です。藤原不比等は、聖武天皇の祖父であり、義父でもあります。



 「女身を捨てて、妄語・両舌・悪口・綺語の四悪道を克服し、人間界と天上界に現れて天輪王となるのです。天輪王とは東西南北の四天下を正法で統一することで、輪宝の種類によって金輪王、鉄輪王とも呼ばれる。世尊の説法を聞くために集まった者たちは、世尊が忽然として宝王大光照如来に変わるのを見る」と金光明最勝王経にあります。

 金光明最勝王経の特有の「悔過(けか)の修法」は懺悔の思想です。悔過とは仏前で犯した罪を告白し懺悔することであり、個人や国家の災いを除去するために本尊に願うことです。類似するものに薬師悔過、吉祥悔過、阿弥陀悔過などがあります。東大寺のお水取りで知られる修二会(しゅうにえ)は十一面観音悔過と呼ばれ、薬師師寺の薬師悔過、法隆寺の吉祥悔過など同じ国家鎮護の法会(ほうえ)です。…………





 ▼ 「変成男子」(へんじょうなんし)の教説

 …………ところで金光明最勝王経の「滅業障品」で「女人変じて男となり勇健聡明にして知恵多く常に菩薩の道を行じ六道を勤修して彼岸に至る」と説かれています。この教説は金光明最勝王経の本質を理解する上で重要です。女人の形では成仏できないから一度、男子に生まれ変わり、その後にはじめて成仏できるということを説いているからです。この教説を「変成男子」(へんじょうなんし)と言います(※)。…………

 ※ 大本神諭を読んで来た人ならば、この「変成男子」=「変性男子」(へんじょうなんし)に気が付くとおもいます。そうです。大本の開祖様のことです。「一度男子に生まれ変わり」する必要もなく、開祖様は女でありながら同時に、男であるという意味で「へんじょうなんし」を名乗られました。つまり、艮の金神=天と地の大神様の非難される仏事は、この時代からのものであることが判るのです。





 ーーーその八月(長屋王が自殺した年)、光明子は皇后になった。天平十年(738)、阿倍(あべ)内親王(母は光明子)が皇太子となった。そして安積(あさか)親王(母は県犬養広刀自)は同十六年に十六歳で怪死した。暗殺されたらしい。後継問題は複雑な問題を残した。

 天平と改元護、政局は不比等の四子と橘諸兄(もろえ)の牛耳るところとなった。天平五年、三千代が死ぬと、橘諸兄の勢力に一まつの影がさした。

 同九年(737)不比等の四子は大陸から襲来した疱瘡(ほうそう・天然痘)の猛威によって、多くの人民、貴族とともに死んだ。後の政局は諸兄が首班として担当することになった。彼は唐から帰朝した学者吉備真備(きびのまきび)と僧玄昉(げんぼう)をブレインとした。

 四子死後ふるわぬ藤原氏、中でも宇合の子広嗣(ひろつぐ)はこれを不満とし、真備と玄昉の排斥(実際は諸兄)を名として九州で、天平十二年秋に兵を挙げた。将軍大野東人(あづまひと)が十月末に広嗣を斬ってこれを平定した。ところが不思議にも、天皇は乱中、伊賀、伊勢、美濃、近江へ行幸し、翌十二月には、諸兄の別荘のある山背(やましろ)国相楽(さがらか)郡恭仁(くに)京に落ち着いて、平城京に帰らず、年越した。翌年には恭仁京を帝都と宣言、建設を開始した。ーーーー『人物探訪 日本の歴史 王朝の貴族 2』(暁教育図書P56~・1986)

 

 


 P77~ 廬舎那仏と東大寺建立

 ▼ 東大寺建立を決意する聖武天皇

 聖武天皇の一世一代の念願は毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ・大仏)を造営して国家鎮護と天皇家の安泰を祈願することでした。当初、近江甲賀郡紫香楽(しがらき)宮近くに造営工事を始めましたが、あいつぐ地震と放火に怯えた天皇は僧良弁(ろうべん)のすすめで、若草山の麓の良弁の金鐘寺(こんしゅじ)の寺地に大仏と東大寺建立を決意したのです。 天平17年(745)のことです。この年の一月行基を大僧正に任じ、聖武天皇は紫香楽宮から平城京に戻ります。……………

 『続日本紀』はこの年に起きた4月27日から9月2日まで17回の地震を記録していますが、特に最初の日の4月27日は一晩中地震が続き、5月1日から10日までは連日地震がありました。

 ※ 聖武天皇に自らの寺地に東大寺建立を薦めた良弁は、金鷲(こんしゅう)行者の名を持ち、金鷲は「金の鳥」、すなわち「金採り」を意味します。大仏に塗る金が東北地方で見つかったので、天皇が大喜びしたそうです。そんな大仏ですから、神が怒られる(地震)のは当たり前ですが、悪人は気付かず、改心もしません。





 そのため5月2日から7日間、金光明最勝経が転読されたのです。9月ごろから天皇が病気がちになり容態に不安があったので、平常の赦で許されないものもことごとく赦免されました。

 9月20日、播磨守で正五位上の阿倍朝臣虫麻呂が奉幣(みてぐら・神へのささげもの)を八幡神社に奉じるために派遣されます。『続紀』のこの記事から最初の宇佐勅使(宇佐使)という説もあります。宇佐使(うさつかい)とは天皇即位や国家変事の際に派遣される宇佐宮参詣(さんけい)勅使のことです。




 ▼ 天平感宝元年(749)、孝謙天皇即位

 皇太子の阿倍内親王(孝謙天皇)が聖武天皇の譲位を受けて即位した天平勝宝元年(749)の年は、さまざまなことがおこっています。『続紀』は孝謙天皇が即位するまで、いかなる用意万端の配慮をしたか詳細に物語っています。

 4月1日、聖武・皇后・阿倍内親王の群臣・百寮(多くの役人)を伴った廬舎那仏(まだ未完成)の前で、左大臣橘諸兄が陸奥国小田郡(現・宮城県遠田郡涌谷町黄金迫)から黄金が出土したという百済王(くだらのこにきし)敬福(けいふく)からの報告や、三宝(さんぽう=仏・法・僧)の奴(やっこ=しもべ)に仕えることを述べ、続いて中務卿(なかつかさきょう=中務省の長官)の石上朝臣乙麻呂が「天下の諸国に金光明最勝王経を置き、廬舎那仏が必要とする金が東方陸奥国の小田郡に出土した」と述べます。

 4月14日に天平21年(749)を改めて「天平感宝元年」とし(※)、翌年の4月22日陸奥守百済王敬福から黄金900両献上されます。

 ※ この749年の年号(元号)がややこしいので整理します。天平感宝(かんぽう)元年(749)の前の年号は、「天平」でした。天平は749年の4月13日まで続きます。それが「天平21年」です。4月14日から年号(元号)が代わり「天平感宝」になります。ところが、孝謙天皇即位にともなってまた7月2日から代わり、今度は「天平勝宝(しょうほう)」になります。



 5月5日、陽候史真身(やこのふみまみ)の子4人に、それぞれ外従五位下の位(くらい)が授けられます。4人はそれぞれ銭1000貫寄進したからです。7月2日、聖武天皇は辞意と孝謙天皇の即位と、「不改常典」(改まることがあってはならない皇位継承の掟(おきて))にもとづき阿倍内親王に授けることを宣言します。


  




   
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