2019年10月31日

人間は自分自身のなかに………その2

わたしたちは問いかけています。なぜ、精神はイメージを創造するのだろう、と。

それは、イメージのなかに安心があるからでしょうか?わたしに妻がいれば、妻に関するイメージを創り出します。「妻」という言葉そのものがイメージです。しかし、妻は生きていて、変化する、活き活きした人間そのものです。彼女を理解するためには、もっともっと多くの注意が、多大のエネルギーが必要です。しかし、わたしは思うのですが、彼女のイメージがあれば、そのイメージとともに生きるほうがはるかに易しいのです。

そもそも、あなたは、自分自身についてイメージをもっていませんか?自分は偉大な人間だとか、偉大ではないとか、自分はこうだ、ああだ、あれこれだ、等々と。そのイメージとともに生きているとき、あなたは幻想とともに生きているのであり、現実とともに生きているのではありません。では、イメージを作るメカニズムとは、どのようなものでしょう?

組織化され、受容され、尊敬されているすべての宗教は、常に何らかのイメージをもっていました。そして、人類は、聖職者の助けによって常にシンボルを、観念や概念等々を崇拝してきたのです。その崇拝のなかに、安らぎ、安全、安心を見出します。ですが、イメージは思考の投影です。そこで、イメージの性質とイメージ作りを理解するには、思考のプロセス全体を理解しなければなりません。そちらへ進んでよろしいでしょうか?みなさんもご一緒に来られますか?けっこう!



それでは、思考とは何でしょう?それは、みなさんが一日中していることです。都市は思考によって建設されました。兵器は思考をベースにしています。政治家は思考をベースにしているし、宗教指導者も、世界のすべてが思考をベースにしています。詩人は美しい詩を書くかもしれませんが、思考のプロセスが続いています。だからこそ、人は、真剣であるなら、探求するべきなのです。そして、思考とは何かという問題に分け入るべきなのです。みなさんはいま、思考しています。

わたしたちは、人は習慣的にイメージを作る、とくに宗教世界ではそうだし、また自分自身についてのイメージももっている、と言いました。そして、わたしたちは問いかけています。なぜ、精神は、あなたの精神は、イメージを作るのか、と。イメージがどれほど偽りであり、そこに何の現実もないとして、イメージのなかには安心があるからでしょうか?人は、どうやら、幻想に安心を求めているようです。

そこで、全人類に共通のものであるイメージ作りを理解するには、考えるという行為、そして、思考の性質に分け入って行く必要があります。すべての思考です。

思考は自然を創り出しはしませんでした。トラ、川、見事な樹木、森や山々、影、渓谷、地球の美しさ、人はこれらを創り出しはしませんでした。ですが、人は、思考を通じて、戦争用の破壊機械を創り出し、さらには、偉大な医学的、外科的進歩を達成し、瞬時のコミュニケーションを可能にする、等々のことをしてきました。思考は、非常に多くの善と非常に多くの害毒に責任があります。それが事実です。そして、人は、真剣であるなら、わたしたちのいかなる問題であれ思考が和らげることははたして可能なのかどうか、探求することを求めます。さて、みなさんは、思考とは何かを自分自身で見出せるほどに真剣でしょうか?


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2019年10月30日

人間は自分自身のなかに………

『同書』P43~

人間は自分自身のなかに安全柵としてのイメージを作り上げている



わたしたちはご一緒に、関係性の問題を探求しようとしています。人は関係性なしには存在できません。人生は関係性と行動です。この二つは人間にとっての基本です。わたしたちの他者との関係性は、いま、どのようなものですか?あなたの妻との関係は?あるいは夫との関係は?仏教徒やヒンドゥー教徒、キリスト教の聖職者との関係は?みなさんの関係性は、どのようなものですか?

よくよく検討してみると、関係性はイメージがベースになっていますーー神について、ブッダについて、妻について、あなたが築いてきたイメージ、あるいは、あなたについて、あなたの妻が築いてきたイメージです。それが事実です。違いますか?結婚におけるイメージ、これはとても親密な関係で、日々、起こっています。男性は妻について、妻は夫について、イメージを創っており、関係性とは、これら二つのイメージのあいだの関係なのです。どうでしょう、同意なさいますか?


これらのイメージは、日々の接触、セックス、苛立ち、慰め等々を通じて築かれます。それぞれが他者について自分なりのイメージを築き、また、自分自身についてのイメージも築きます。さらに、神について、宗教神についてのイメージももっています。なぜなら、イメージを創造すると、そのイメージのなかには、たとえ偽りであれ、非現実であれ、狂気の沙汰であれ、安心があるからです。精神が創り出したイメージのなかには、安心があるのです。あなたが妻について、あるいは、妻があなたについて、一つのイメージを創り出すとき、そのイメージは実際のものではありません。ですが、実際のものとともに生きるのははるかに難しく、イメージとともに生きるほうがはるかに易しいのです。

関係性はイメージどうしのあいだにあり、したがって、そこに関係性はありません。みなさんがこうしたすべてをおわかりくださるように願っています。これは事実です。キリスト教徒はイメージを崇拝します。そのイメージは何世紀もかけて聖職者たちによって、崇拝者たちによって創られてきたものです。彼らは言います。わたしには安らぎが、安心が、面倒を見てくれる誰かが必要なのだ、と。

わたしは滅茶苦茶で、混乱していて、不安で、そのイメージに安心を見出すのだ、と。わたしたちは、真理の崇拝者ではなく、イメージの崇拝者に、徳のある生の崇拝者ではなく、イメージの崇拝者になりました。国旗つきの国家のイメージ、科学者たちや政府に抱いているイメージ等々です。イメージ作りは人間の弱点の一つです。

それでは、何についても何のイメージももたずに、事実とともに、それだけとともに生きることは可能でしょうか?事実とは実際に起こっていることです。わたしたちはお互いに出会っていますか?


なぜ、精神はイメージを創り出すのでしょう?生はイメージではありません。残念ながら、生は衝突です。生は絶えざる葛藤です。葛藤はイメージではありません。事実であり、まさに起こっていることです。それでは、なぜ、精神はイメージを創り出すのでしょう?この話し手がイメージと言っているのは、シンボル、概念、結論、理想のことです。これらはすべてイメージですーーわたしはこうあるべきだとか、そうではないがそうありたいとか。

これは、精神によって時間のなかへ投影されたイメージ、未来へ投影されたイメージです。ですから、現実ではありません。現実とは、いま、あなたの精神のなかで実際に起こっていることです。先へ進んでもよろしいですか?







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2019年10月29日

関係性という鏡を通じて……その2

質問者: わたしは時間が過ぎ去るのに気づき、終わりになるのではないかと不安になり、そこで、自分が創り出したイメージに永続性を求めるのです。



k: 永続性は何にでも求められます。そこで、わたしは、思考はなぜそれを求めるのか、と自問するのです。さあ、よく観察してください。わたしは伝統的なシンボルに、十字架に安心を求めます。そこに安心を見出しますーーなぜでしょう?そして、わたしは論理的にはーーそもそも気づいているとすればーー論理的には、それが思考の産物であると知っています。それでも、思考はそれにしがみつくーーなぜでしょう?



質問者: 条件づけです。



k: それは、わたしたちの条件づけの一部ですか?子どものころからの条件づけの一部として、シンボルをーーラーマ、クリシュナ、あるいはキリストをーー信じている。なぜでしょう?

思考はそこに安心を見出しますが、しかし、思考がそれを見つめるとき、なんだ、じつは何の安心もないじゃないか、と言うわけです。ただの観念ーー思考がでっちあげたものです。思考がイメージにしがみつくとき、それは、まさに神経症そのものです。それは危険だと知っているが、それでも、わたしはしがみつきます。これがどれほどばかばかしいか、おわかりですか?




質問者: はい、わかります。



k: いや、待ってください。あなたは、ほんとうに、そのばかばかしさがおわかりですか?



質問者: はい、わかります。



k: それなら、もう終わりです。あなたはイメージを創り出さない。ですが、待ってください。妻がわたしを愚か者と呼んだら、わたしはイメージを作らずに彼女の言葉を聞くでしょうか?あるいは、古い伝統、習慣、条件づけが、つまり、イメージを作る、という思考の応答があるのでしょうか?話についてきていらっしゃいますか?

彼女はわたしを愚か者と呼ぶが、まったくイメージを作らない。そんなことが可能ですか?彼女におだてられたときも同じで、コインの裏面にすぎません。これについて、掘り下げてみませんか?

わたしが何か気に入らないことを言ったか、したために、妻がわたしを愚か者と呼びます。思考は条件づけられているので、即座の応答としてイメージが生まれます。わたしは愚か者ではない、と。そこにイメージがあります。さて、わたしは彼女の言うことを、そのような応答なしに聞くことができるでしょうか?どうか、それを見出してください。それは無関心とは違います。

彼女が「ダーリン、あなたはすばらしい」と言うときーーこれも別のイメージですーーわたしはただ聞くことができるでしょうか?わたしを愚か者と言っても、すばらしいと言っても、それを溜め込まず、記憶せずに聞くことができるでしょうか?わたしの質問がおわかりですか?大変重要なことですから、もう少し見てみましょう。

脳には記録するメカニズムがあります。そうですね?脳は記録しています。そのように条件づけられているので、ただちに「愚か者」を記録します。あるいは、わたしをすばらしい人だと言えば、「すばらしい」が記録されます。さて、彼女が愚か者と言うとき、あるいは、すばらしいと言うとき、何の記録もないということがあり得るでしょうか?それは、無関心や鈍感、無神経とは違います。いま、わたしにできることはーーどうか、聞いてくださいーー記録しないことだけです。そして、それが可能なのは、彼女が言うことに完全な注意を注いでいるときだけです。彼女が愚か者と言っても、すばらしいと言っても、わたしが完全な注意を注いでいるときには、記録はありません。


どうか、やってみてください。ここに座っているいま、やってみてください。あなたは、妻もしくはガールフレンドの、あるいはボーイフレンドのイメージをもっているーーこの少年、この少女、男性、女性。まったくうんざりします!死ぬまでそれが続くのです。ほんとうに馬鹿げています。わたしは指摘します。イメージ作りは思考のプロセスである、と。思考はイメージを作り、そして、そこには葛藤があります。わたしは葛藤のなかに、それがインドとかパキスタンのものであれ、ロシアとアメリカのものであれ、とてつもない危険を見ます。とてつもない危険があるのは、人々が殺し合うからです。

そこで、お尋ねします。イメージ作りはやめられるでしょうか?やめられます。では、なぜ、思考は、そのようなイメージを生み出すのでしょう?思考は、それらのイメージに安心や安全を見い出しますーーそれがどんなに馬鹿げたことか、知っているにもかかわらず。そして、思考が非合理なことにしがみつくとき、それは神経症なのです。[出典 21] The Wholeness Of Life (邦訳『生の全体性』 平河出版社) 第Ⅱ部第7章より。








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