2019年11月29日

意識の中身が……その6

人は、常に、観察されるものとは異なる観察者として観察してきました。観察者は意識の一部で、その中身とともにあり、意識の他の部分を観察しています。したがって、観察者と観察されるものとのあいだには分断があります。ですが、観察者は意識の場にいるのです。そして、観察者が観察されるものであることが、その事実が見えるとき、観察者のいない意識の中身は、観察されるものと異なるでしょうか?

これは、答えるべき、見出すべき、非常に重要な問いです。観察者は意識の中身です。そして、観察者は自らを、これも意識の一部である観察されるものから引き離します。したがって、その分断は、現実のものではなく、人為的です。そして、観察者が観察されるものであることが見えるとき、精神のすべての葛藤は終わります。



よろしいですか?非常にシンプルにしてみましょう。

すべての関係性は、あなたが相手について築き上げたイメージと、相手があなたについて築いたイメージをベースにしています。この二つのイメージが関係をもつのですが、これらのイメージは、長年の記憶、経験、知識の結果であり、あなたが彼女について築き、彼女があなたについて築いたのです。それは、あなたの意識の一部です。

それでは、あなたと彼女のあいだにまったくイメージがなく、彼女があなたについてまったくイメージをもっていないときの関係性とは、どのようなものでしょうか?あなたはーーお尋ねしてもよければーーあなたは、自分が彼についてイメージをもっていることに、それにひどく執着していることに気づいていますか?あなたは、彼女についてイメージをもっていて、それにしがみついていることに気づいていますか?あなたは、これに気づいて、意識的でいますか?もし、意識的であるなら、彼女に対するあなたの関係性は、あるいは、あなたに対する彼女の関係性は、そのイメージをベースにしていることが見えますか?それらのイメージですよ。それらのイメージを終わりにできますか?


そのとき、関係性とは何でしょう?イメージが終わるとき、そのイメージは意識の中身であり、意識を作り上げているのですが、あなたが自分自身やすべてについて抱いているさまざまなイメージ、これらのイメージが終わりになるとき、あなたと彼女のあいだの関係性とは、何なのでしょう?そのとき、観察されるものから離れた観察者がいますか?あるいは、関係性のなかに愛の全的な運動がありますか?観察者がいない関係性のなかの運動、それが愛です。



さて、精神はーーここでは「精神(mind)」という言葉を、脳、生命体、全体性として使っていますーーその精神は、断片化の場のなかで生きてきました。断片化が意識を作り上げていて、そして、その中身がないなら、観察者もいないのです。観察者がいないとき、関係性は、あなたが彼女について、彼女があなたについて抱いているイメージがあるときに生まれる時間の場にあるものではなくなります。そのイメージは、あなたが日々生きているうちに、終わることが可能でしょうか?イメージが終わらないなら、愛もありません。そのときは、一つの断片に対する別の断片があるだけです。


さて、ここまでお聞きになったみなさんは、そこから結論を引き出さないでください。その真実を見てくださいーーそして、その真実は、言葉を通じて見ることはできません。言葉の意味を聞くことはできますが、しかし、その意義を見なければならず、見抜く洞察をもたなければならず、その真実を、実際の「あるがまま」を見なければならないのです。

[出典 26] 1973年7月8日の「ブロックウッドパーク・トーク」のテープより。











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2019年11月28日

意識の中身が……その5

さて、経験と記憶に基づく知識ーーそこからすべての思考が生じ、したがって、決して自由ではなく、決して新しくないのですがーーその知識はなければなりません。それは意識の一部です。違いますか?みなさんは、これらすべてと向き合っていますか?誰かがわたしと同行する。自転車に乗る、自動車を運転する、異なる言語を話す。その知識はなければなりません。それもまた、意識の一部です。

ですが、その知識は、別個の運動としての「わたし」に使われるのです。「わたし」は、心理的な快適さと権力、立場、評判、その他諸々のために、その知識を使います。そこで、わたしは自問します。その意識は、「わたし」という心理的な運動である中身のすべてとともに、いま、終わることが可能だろうか、と。そうすれば、精神は、死とは何を意味するかに気づき、何が起こるかを見るでしょう

あなたが実際に死ぬときーーそれがまもなくでないことを願っていますがーーあなたが死ぬとき、起こるのはそういうことです。そうではありませんか?心臓は鼓動を停止し、血液は脳に送られない。脳は新鮮な血液なしにはほんの二分か三分半くらいしか生き延びられず、したがって終わりになります。脳細胞には、あなたの過去の行動や意識、欲望、記憶、痛み、不安などのすべてが蓄えられています。すべてがそこにあり、それが終わりになるのです。



それでは、そのすべてが、いま、今日、生きているうちに終わることは可能でしょうか?もし、そうなったら、何が起こるでしょうか?この質問は不必要かもしれません。あるいは、一度もそんなことを考えたことのない精神に問いかけたら、ただ終わりを恐れるだけかもしれません。ですが、恐れない精神、快楽を探したり追求したりしない精神ーーそれは、陽光や木の葉の動き、枝ぶりの美しさを楽しんだり、ほんとうの楽しみである美しいあれこれを見たりできない、という意味ではありませんよーーその精神は、中身ごと「わたし」の全体を観察し、それを終わらせることができるのではありませんか?


そして、それが不死ではないでしょうか?通常の場合ですと、死ぬべきもの(mortal)が不死(immortal)に作りなされます(本のとおり(龍))。死ぬべきものは死にます。不死は死ぬべきものの観念であり、死ぬべきものは意識の中身です。そこで、人は、書物に、詩に、絵に、自分の欲求と欲求の充足の表現に、不死を求めてきました。家族に、名声に、不死を求めてきたのです。そして、それもまた、依然として、中身が時間のなかにある意識の一部であり、したがって、時間なき精神、不死を見る精神ではありません。



それでは、生きているあいだに意識の中身が死んだ精神、存在には、何が起こるでしょう?この疑問を真剣に自分に投げかけ、瞑想に時間をかけ、そのなかに入って行ってください。手っ取り早い、あるいは表面的で愚かな答えを探すのではなく。
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2019年11月27日

意識の中身が……その4

人間はこのことを恐れてきました。そして、キリスト教徒は復活という観念に、ヒンドゥー教徒と仏教徒は来世に慰めを得てきました。何の来世ですか?復活、来世、これは何ですか?意識とその中身すべては死んだのに、来世に慰めを求める希望、欲求がある。あいかわらず、意識の場のなかです。

みなさん、いままでの話がおわかりですか?わたしはなぜ、これにこれほどの情熱を注ぐのかわからないのですが、それがわたしの人生ですーー生きているあいだ、わたしは自分が死ぬことを知っていて、死を合理化し、見つめ、遺体が運ばれていくのを、埋葬されるのを、焼かれるのを、火葬されるのを見ます。そして、そのまわりにイメージが作り上げられます。わたしは周囲で起こっているすべてを見てきました。そして怯え、怯えているので慰めを、安心を、何らかの希望を求めずにはいられず、それは、依然として、わたしの意識の場に、生きている意識の場にあるのです。



さて、脳が病気か事故か老いによって終わりになるとき、何が起こるでしょうか?精神は充分に気づいています。意識とはその中身であり、中身がないときは意識もない、という、このことに。そして、脳が死ぬとき、中身も明らかに死にます。「わたし」、思考によって作り上げられた「わたし」、思考が環境や恐怖、快楽、事故、さまざまなかたちの刺激や欲求を通じて作り上げたイメージである「わたし」、その「わたし」は中身で、その中身がわたしの意識です。


その意識ーー記憶と知識と経験の運動全体ーーが、死ぬときに終わります。わたしはそれを合理化して、その合理化に慰めを得たかもしれないし、その慰めは、何らかのイデオロギー、信念、教義、迷信のなかにあるかもしれません。ですが、それは現実ではありません。現実とは何の関係もないのです。あらゆる宗教が、これがある、あれがある、と宣言しても、現実とは何の関係もありません。なぜなら、ただの意見で、誰かの意見の聞き伝えですから。精神は自分自身で見出すしかないのです。

では、日々の関係性のなかで毎日生きている精神は、意識を作り上げている中身、つまり、本質的に「わたし」とその活動ということですが、それなしに生きることができるでしょうか?そして、精神、脳、生命体が、理論的にではなく、実際に終わるとき、何が起こるでしょう?これが人間の問題でした。人間はおびただしい蓄積を、たくさんの知識やたくさんの事柄についてのたくさんの情報の蓄積を行なってきたのですが、結局、最後にあるのは、この死と呼ばれるものだけです。そして、それを解決できないのでーー少なくとも、解決できずにいるのでーー人には、慰めとなるあらゆるイメージ、推測、信念があるわけです。

わたしは生き続けるだろう、あるいは、生き続けはしないだろう、というように。このようなすべてとともに生きていれば、意識はその中身とともに継続し、それは人間がそのなかに囚われる流れとなりますーーこれは別の話で、ここでは取り上げません。これはまた、別の探究なりますから。




そこで、いま生きているときに、今日、今朝、脳が実際に停止し、記憶もイメージも結論も終わりになったら、何が起こるでしょうか?つまり、意識の中身ということです。わたしの脳、わたしの意識、「わたし」であるものとその中身のすべてが、生きているうちに終わることは可能でしょうか?あと十年たって病気で終わるのではなく、いま生きているうちに、です。その精神は、その意識は、中身を空っぽにする、したがって、「わたし」を空っぽにすることができるでしょうか?みなさん、おわかりになりますか?

そんなことが可能でしょうか?わたしはここで話し終えたあと、立ち上がって自室に行きます。自室がどこにあるのかという知識は必要です。そうでないと、生きることがまったくできなくなります。それは明らかです。








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