2019年11月01日

人間は自分自身のなかに………その3

思考とは、知識として脳に蓄えられた記憶の応答です。知識は経験から生まれます。人類はおびただしい経験をして、それによって、膨大な知識を積み重ねてきました。その一部は事実に基づき、一部は幻想あるいは神経症的です。そして、何かを問われると、記憶が思考として応答します。それが事実です。

わたしたちはこの問題について、大勢の科学者と議論してきました。一部の方々はわたしたちに同意し、その他の方々は同意しませんでした。しかし、みなさんは、これを自分自身で見出すことができます。つまり、みなさんには経験があり、その経験が知識として記憶のなかに蓄えられ、その記憶された知識が思考を投影するのです。そこは明確になっていますか?どうか、わたしに賛成なさらないでください。ご自分で検討してください。自分のなかを見つめてください。何の経験も、何の知識も、何の記憶もないなら、思考はできません。経験を通じた知識があって、記憶のなかに蓄えられ、何らかの挑戦にたいするその記憶の応答があり、それが思考なのですーーその思考のうえに、わたしたちは生きています。

ですが、知識は常に限られています。何についてであれ、完全な知識はありません。それが事実です。ですから、どれほど美しくても、思考は常に限られていますーー思考は大聖堂を、見事な彫像を、偉大な詩を、すばらしい大作等々を作り出すかもしれません。ですが、知識から生まれた思考は常に限られています。なぜなら、知識は常に不完全で、知識は常に無知の影なかにあるからです。そこで、思考はこれらのイメージを創り出します。思考はあなたとあなたの妻のあいだのイメージを創り出し、世界を破壊する技術をもった国家の観念等々を創り出すのです。


さて、わたしたちは問いかけています。ただの一つのイメージもなしに、日々の生を生きることは可能なのか、と。ここからご自宅に帰るには、思考が機能しなくてはなりません。自分の家がどこにあるかという知識が、どこの道を行くべきかという知識等々が必要です。その知識は存在しなければなりません。そうでないと、完全に迷ってしまうでしょう。

言葉を話すのにも知識は必要です。この話し手が英語を話す場合のように。ですが、イメージを創り出すことは、はたして、必要なのでしょうか?わたしの質問がおわかりですか?わたしたちは一つのイメージもなしに生きることができるでしょうか?それは、どんな信念もなしに、という意味ですーーだからと言って、混沌の人生を送るということではありませんよーーそうではなく、どんな信念もなしに、どんな理想もなく、どんな概念もなしに、という意味です。これらすべては思考の投影であり、ですから、すべてが限られています。ここで疑問が生まれます。行動とは何でしょう?なぜなら、思考をベースにした行動は常に不完全だからです。したがって、人は問わねばなりません。どんな状況でも適正な行動はあるのだろうか、と。なぜなら、これは、極めて真剣な問題だからです。[出典 22] 1980年11月8日の「スリランカ・トーク」(邦訳『生の書物』UNIO)より。




posted by 無来 龍 at 10:05| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする