2019年11月05日

イメージの重荷が思考、………

『同書』P49~

イメージの重荷が思考、関係性、そして日常生活を支配している



クリシュナムルティ(以下k): わたしはまず、精神は怠惰で、型通りが好きだと考えますーー型とは、信念、見解、結論です。たとえば、数人の人たちと話したとして、彼らは、誰かについて、ある見解を作り上げています。そして、その見解を揺るがすことはできませんーーそれらについての事実を、論理を、真理を示しても、どうにもならない、なぜなら、彼らの見解は正しいからです。みなさんも、いままでに、そうした人たちと会ったことはありませんか?

キリストは存在する。話はそれで終わりです。マルクスは正しい。それで終わり。毛沢東語録はすばらしい。それで終わり。では、なぜ、精神はそのようなことをするのでしょう?それは、毛沢東語録に、マルクスに、イエスに、完全な安心を見出すからです。それは、完全な怠惰を意味しますーーもう、考える必要がないのです。

また、それ以上に学ぶことを恐れています。なぜなら、さらに何かを学ぶことは、「いまのまま」を、あなたの結論を、あなたのイメージを揺るがすことを意味するからです。そこで、わたしが見るところ、脳は安心のなかに、抽象概念のなかに生きることが好きなのです。そのほうが、事実よりももっと重要なのです。正しいか間違っているかは別として、わたしはあなたについての見解を作り上げていて、その見解は結論であり、それを変えるには、「まいったな、わたしが間違っていた、きみとはちがって」と言うには、少々の思考が、少々のエネルギーが必要ですーーつまり、わたしは間違っていたくない、それよりきみが間違っているほうがいい、というわけです。

そこで、脳は言います。「わたしは安心がほしい。わたしの安心は、信念に、結論にある。だから、それを揺さぶらないでくれ」と。そうではありませんか?ですから、信念を見出して、それをイメージすることは、安心を見出し、それゆえに、怠惰になることなのです。揺さぶられたくないのです。わたしのではなく、自分自身の精神を見つめてくださいーーわたしは、この厄介なことを経験してはいないのです。




質問者: 何かを観察するとき、たとえば、すばらしい山を観察するとき、人は強い印象を受けると思うのです。その印象は何なのか、話していただけますか?それは、必ずしもイメージを残すということではないでしょう。





k: もちろん、印象というものがあります。わたしには、山々の印象がある。あなたの印象があるーーあなたを知らないが、印象を、漠然とした感じを抱きます。あなたに印象づけられ、あなたはわたしに心地良い、あるいは不快な痕跡を残します。

次にあなたに会ったとき、その印象が教化されます。そして、わたしは言います。「なるほど、彼はとてもいい人だ」と。あるいは、いい人ではない、と思います。さらに、三度目になると、イメージが確立されます。どうか、よく見てくださいーー脳は抽象概念のなかにいたい。そこに安心を見出します。それが非常に不穏なものであっても、それが脳にとっての唯一の安心なのです。

つまり、脳には安心が必要なのです。そこで、イメージが最も大切なものになります。わたしは、死後の生はないと、あるいは、死後の生はあると、結論づけます。それで、とてつもない安らぎを得ます。だから、これ以上、その話はしないでくれ、というわけです。わたしはその信念のなかで生きています。それがとてつもない安心を与えてくれますーーその信念が神経症的だろうと、現実だろうと、幻想だろうと、それはどうでもいいのです。そこで、わたしは見出します。あなたについてのイメージでも、何についてのイメージでも、精神と脳に安心を与えてくれるので、そこにしがみついてしまうのです。みなさん全員がそうです。



posted by 無来 龍 at 10:02| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする