2019年11月07日

イメージの重荷が………その3

質問者: それらの実態を見たからといって、信念やイメージを捨てたら、あとには何も残りません。何もないのが、わたしは怖いのです。





k: なるほど、イメージを捨てたら、結論や怠惰を捨てたら、何も残らない、それが怖い、ということですね。ですが、どうして、それらを捨てるのですか?誰かが捨てろと言ったから?それとも、洞察を得たから、理解を得たから、それらを捨てるのですか?それなら、あなたの理解が安心なのではありませんか?そのときには恐怖はありません。ひとたび、観察へのキーである洞察を得たなら、英知をもって理解し見抜く能力を得たなら、その英知が安心なのです。そして、怠惰ゆえに、それがないのです。

観察とは非抽象化という意味です。観察があるだけで、観察者はありません。観察者とは抽象概念です。観察者は抽象概念、観念、結論であり、それは過去です。過去の目を通じて、みなさんは、木々を、山々を、妻を、子どもたちを、その他すべてを見ています。それが、みなさんの怠惰の一部です。

それがわかったなら、洞察を得たなら、幻想の、つまりは抽象化のとてつもない構造に気づいているなら、その観念そのものが全的な安心なのです。おわかりですか?

では、みなさんは、今日、幸せな気持ちで、あらゆるイメージから解放され、したがって、洞察という光だけを抱いて、このテントから立ち去れるでしょうか?いかがですか?


質問者は(この前に)、山々や木々、川、緑の牧場は、人間、大衆とは違う、と指摘しました。それでは、わたしと大衆との関係性とは、何でしょうか?この渦巻いている人類全体との、その惨めさすべてとの、その他すべてとの関係性とは、何でしょうか?その関係性を見出すことを妨げているのは怠惰ですか?無関心ですか?それとも、まさにこの問いを問うことで、わたしは、それを見出すエネルギーを活性化させたのですか?

わたしを見ないでください。みなさんはどう思うのですか?あのご婦人は、丘陵について、木々や山々、花について語るのは簡単だが、人間関係となると、それが一人との関係性であれ多数との関係性であれ、人生は非常に難しくなる、とおっしゃいます。前に言ったように、それは難しい。なぜなら、わたしたちは何に対しても何の関係性ももっていないからですーーわたしたちは抽象概念のなかで関係性をもっています。したがって、わたしたちは抽象概念のなかで生きているーー大衆、「わたし(me)」、結論、イメージーーわたしたちは抽象概念のなかで生きています。それがどういう意味か、お気づきですか?

わたしたちはまったく生きていない、ということですーー何の価値もないイメージのなか、結論のなかでしか、生きていないのです!
posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする