2019年11月13日

過去の奴隷で……その3

わたしたちはみな、もっと広くてもっと深い経験をしたい、もっと強烈な、もっとわくわくする、ただの繰り返しでない経験をしたいと願い、それで、ドラッグを通じて、瞑想を通じて、あるいはビジョンを通じて、もっともっと鋭敏になることを通じて、そのような経験を手に入れようとします。このようなドラッグは、しばらくのあいだは、とてつもなく鋭敏になるのには役立ちます。心身全体が高揚します。つまらない日常的な経験から神経も存在全体も解放され、強烈な状態がもたらされます。

その強烈さのなかでは、経験者も経験もなく、ただ、ものごとだけが存在する、ということが起こり得ます。花を見ているときには、花だけがあります。花を見ている観察者はありません。これらさまざまなドラッグは身体を、心身全体を、したがって脳をとてつもなく鋭敏にします。その状態では、あなたが詩人や芸術家であれば、あるいは、その他のあれこれであれば、その気質に従った経験をするのです。

ただし、わたしは、どんなドラッグも使ってはおりません。わたしの場合、どんなかたちの刺激物もーーみなさんがこの話し手によって刺激されるというかたちも含め、どんなかたちでもーーアルコールであれ、セックスであれ、ドラッグであれ、あるいは、ミサに列席してある種の感情的な緊張状態になることであれ、きわめて有害だからです。なぜなら、どんなかたちの刺激物も、どれほど微妙なものであっても、その刺激に対する依存を通じて精神を鈍重にするからです。刺激物は、ある種の習慣性を植えつけ、精神を鈍重にします。


わたしたちのほとんどは、ドラッグは使いませんが、しかし、もっと広くてもっと深い経験を欲しています。そこで、わたしたちは瞑想します。瞑想によって思考をコントロールすることで、学ぶことで、特異な感情や心理をもった神秘的な状態になることで、ビジョンをもち経験をすることで、超常的な状態に到達できると期待します。みなさんが何かを得る手段として瞑想するのであれば、瞑想は、もう一つのドラッグなります。習慣性がつき、そのために、自由な精神の質である、精妙さや鋭敏さが失われるのです。

わたしたちのほとんどはシステムに從うことを好み、アジアにはとてもたくさんのシステムがあって、なぜか、わたしにはわかりませんが、それらが西欧に輸入されてきました。誰もがこれらのシステムの罠にはまります。マントラなどがありますね。ラテン語やサンスクリットで、あるいは、その他の言語でも、ある言葉をくりかえし唱えていると、精神は静まりますが、しかし、鈍重で愚かになります。キリスト教の祈りを繰り返しても、狭小な精神は、あいかわらず狭小な精神なのです。一日一千万回繰り返しても、それは、あいかわらず狭くて浅はかで愚かな精神なのです。




瞑想は、まったく違ったものです。瞑想を理解するには、ドラッグを投げ捨て、特定の沈黙状態に到達するための言葉の反復を含めたすべての方法を拒否しなければなりません。そのような沈黙状態は、じつは停滞です。また、さらなる経験を求める欲望も、そのすべてのかたちを捨てなくてはなりません。これは、非常に難しいことです。なぜなら、わたしたちのほとんどは、醜さや野蛮さや暴力性でいっぱいになっていて、人生に絶望しており、もっとほかに何かないかと求めているからです。

わたしたちは、火星に行くというような外的な経験であれ、もしくは、内面的な深い経験であれ、新しい経験を切望しています。人は、これらすべてを捨てなくてはなりません。そのときはじめて、自由があるのです。これらをどのように捨てるか、それは、とても重要なことです。あれこれへの欲求をわたしは捨てられる、なぜなら、それは、あまりにも馬鹿げているから。とはいえ、内面的には、あいかわらず経験を求めているかもしれません。






posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする