2019年11月14日

過去の奴隷で……その4

わたしはキリストやブッダに、あるいは、あれこれの人物に会いたいとは思わない。それは、明らかに馬鹿げている。なぜなら、それは、自分自身の背景の投影であるから。このように、わたしは理性的に否定し、論理的に否定するかもしれません。しかし、内面的には、わたし独自の経験を、過去に汚染されていない経験を求めます。ですが、わたしが望むすべての経験は、すべてのビジョンも、過去に汚染されているのです。

わたしは過去の深さを、高さを、意味を、質を理解しなくてはなりません。その理解のなかで、わたしは過去に対して死に、精神は過去に対して死にます。精神は過去です。脳の構造全体、その付属物すべてが、過去の産物です。それは時間によって、ニ百万年の時間によって築き上げられたものです。そのすべてを、ぽいと投げ捨てることはできません。反応が生じるたびに、それを理解しなくてはならないのです。わたしたちのほとんどは、いまもまだ大量の動物性を自分のなかにもっているので、そのすべてを理解する必要があります。そして、理解するためには、それに気づいている必要があります。気づいているとは、観察し、耳を傾けることーーそれを非難したり、正当化したりせずにーーです。




外的にも内的にも気づいていることで、そして、引いてはまた満ちてくる潮に乗るように、外への動きへの気づきに乗ることで、それによって、精神は自らの反応、応答、要求、強迫を発見し始めます。これらの要求、衝動、応答を理解するには、非難してはいけません。非難すれば、そのときは、理解していないのです。それは、子どもの扱い方としていちばん簡単だから、子どもを叱るようなものです。わたしたちは非難し、それで理解したと考えます。しかし、理解していないのです。

なぜ、非難するのかを見出す必要があります。なぜ、あなたは非難するのでしょう?なぜ、合理化するのでしょう?なぜ、正当化するのでしょう?非難、正当化、合理化は、事実からの逃避のかたちです。事実はそこにあり、事実はあるがままで、あるがままにあります。なぜ、それを合理化しなくてはならないのでしょう?なぜ、非難しなくてはならないのでしょう?なぜ、正当化しなくてはならないのでしょう?わたしがそれをするとき、それは、エネルギーの浪費です。したがって、事実を理解するためには、完全にそれとともに生きる必要があります。精神と事実のあいだのいっさいの距離なしに。なぜなら、その事実が精神だからです。


みなさんはドラッグを拒否し、経験を求める衝動を拒否しました。なぜなら、この醜い怪物的な世界から何か特別なものへと逃げたいと思うとき、そのような経験は、事実からの逃避になることを理解したからです。精神と脳が過去の産物であるなら、人は、意識的な過去だけでなく、無意識の過去も理解する必要があります。人は、それを、即座に理解できます。何カ月、何年もの時間をかけて、精神分析医のところへ行ったり、自分自身を分析したりせずに、です。人は、どう見るかを知っているなら、ものごとの全体を即座に、一度見るだけで理解できます。では、どう見るかを見出しましょう。少しでも見るものへの非難の感覚があり、正当化の感覚があるなら、見ることはできません。そこは、完全に明らかにしておかねば。

子どもを理解しようと思うなら、非難していけません。観察しなくてはならないのです。遊んでいる子ども、泣いている子ども、笑っている子ども、眠っている子どもを観察するのです。重要なのは子どもよりも、子どもをどう観察するかです。いま、わたしたちは見る方法について検討しているのではありません。ひと目見ることでーービジョンをもつのではなく、また、目だけで見るのではなく、内面を見ることでーー構造全体を理解し、それから自由になることは可能なのか、それを理解しようとしているのです。それが、わたしたちの言う瞑想ですーーそれ以外ではありません。

精神はこの地点まで到達しました。ドラッグや経験、権威、追従、言葉の反復、コントロール、自分を一方向へ強制することを拒否したからです。精神は見て、学んで、分け入り、観察しました。それが正しいとか間違っているとか言いませんでした。そこで、何が起こったでしょう?いまや、精神は、ドラッグを通じてではなく、どんな刺激物を通じてでもなく、自然に、敏捷(びんしょう)になり、鋭敏になりました。精神は、きわめて鋭敏になったのです。

それでは、その「鋭敏(sensitive)」という言葉を考えてみましょう。質問がありますか?みなさんは、話し手の言うことを聞いていますか?あるいは、話のあいだ、自分自身に耳を傾けていますか?


posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする