2019年12月27日

良いお年を

KIMG0134.JPG私がギターをおぼえた小学生の高学年の頃(1960年代の中頃)、それは私の思春期の真っ只中で、ロックであろうがジャズであろうが、フォークであろうがポップスであろうが、みんなが歌う歌詞の内容にはいつも自由がありました。

自由を叫ぶことが若者らしく、そうして時代は、私の嫌いな「ラヴ&ピース」の70年代に入って行きますが、ちっとも、自由なんて何処にも在りませんでした。


あれから、何処をどう回って来たのか、今や他人に言う気が失せるような年寄りになってしまいました。でも、この自由について他人に語るなら、もう一度、自分の過去を語れる気がします。


「俺たちには鎖が巻かれているのに、それの正体さえわからずに来たんだ」

「その鎖は、時には自分で自分自身を締め付けていたんだ」

「そうだ、意味さえも解らずに、自分自身を締め付けることの同意さえして来たんだ」


そんな私が、あなたが、自由を叫ぶということ、そのことを見つめるということ、次の年もわたしたちは探し続けるべきでしょう。


今年も一緒に考える時を過ごせた事に感謝します。年明けは、14日から再開します。良い年をお迎えください。
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2019年12月26日

思考は時間である……その2

前に言ったように、わたしたちは「あるがまま」を「あるべき」にーー理想に変えるように鍛錬され、教育され、訓練されています。そして、「理想(ideal)」という言葉は「idea」という言葉から発しており、「idea」とは見ることを意味します。それだけです。見ているものから抽象概念を引き出すのではなく、見ているものとともに実際にとどまるのです。


さて、わたしたちは「あるがまま」を「あるべき」に変えるように鍛錬されています。この鍛錬は、「あるがまま」と「あるべき」のあいだの空間をカバーする思考の運動で、それには時間がかかります。空間における思考の運動全体は、「あるがまま」を「あるべき」に変えるのに必要な時間なのです。

しかし、観察者は観察されるものです。したがって、そこに変えるべきものはありません。なぜなら、「あるがまま」があるだけだからです。観察者は「あるがまま」をどうしていいかわからず、そこで、「あるがまま」を変えるために、それをコントロールや抑圧するべく、さまざまな方法を試みます。しかし、観察者は観察されるもので、「あるがまま」は観察者なのです。

怒りや嫉妬がそうであるように、嫉妬は観察者です。嫉妬は観察者から離れて存在せず、両者は一つです。



さて、「あるがまま」を変えようという運動ーー時間のなかの思考としての運動ーーがないとき、「あるがまま」を変える可能性はない、と思考が知覚するとき、そのときは、「あるがまま」は完全に停止します。なぜなら、観察者は観察されるものだからです。これについて深く分け入ってみるなら、みなさんは自分自身でおわかりになるでしょう。これは、ほんとうにとてもシンプルなことです。

たとえば、わたしが誰かを嫌悪しているとします。そして、その嫌悪は「わたし(me)」とは別のものだと考えます。ですが、嫌悪する主体(entity)は、嫌悪そのものであって、別のものではありません。そして、思考が「わたしはこの嫌悪を克服しなければならない」と言うとき、それは、実際にあるものを克服しようとする時間のなかの運動であり、それは、思考によって創り出されたものです。


観察者、主体、そして嫌悪と呼ばれるものが同じであることが見えるとき、そこには、完全な無動性があります。それは、「静態的永続(staticism)」ではなく、運動の完全な不在であり、したがって、完全な沈黙です。運動としての時間、ある結果を達成する思考としての時間はすべて終わり、したがって、活動は瞬時です。精神は土台を据えており、無秩序から自由です。それをベースにして、それゆえに、徳が花開き、その美しさがあります。

その土台のなかに、あなたと他者との関係があり、そこには、イメージの活動はなく、関係性だけがあります。イメージが自らをほかのイメージに合わせることはありません。「あるがまま」だけがあり、「あるがまま」の変更はありません。「あるがまま」の変更も、「あるがまま」の変容も、時間のなかの思考の運動です。



ここまで来たとき、精神は、そして脳細胞も、全面的に静止します。記憶、経験、知識を抱えている脳は、既知の領域で機能できるし、機能しなければなりません。ですが、いまや、精神と脳は、時間と思考の活動から自由になっています。すると、精神は完全に静止します。このすべては、努力なしに起こります。どんな規律やコントロールの感覚もなしに、まさに起こるのです。

規律やコントロールは、すべてみな無秩序に属しています。わたしたちが言っているのは、みなさんのグルたちやマスターたち、禅やそれらのすべてが言うこととは、まったく違います。ここには何の権威もなく、他者への追従もまったくありません。もし、誰かに追従するなら、自分自身を破壊するだけでなく、相手をも破壊します。ですから、宗教的な精神にとっては、どんな権威もありません。ですが、英知があり、その英知を働かせます。科学者の、医師の、運転教習指導者の権威はあります。そのほかには何の権威も、どんなグルもありません。

[出典 31] 1973年9月9日の「ブロックウッド・パーク・トーク」のテープより。
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2019年12月25日

思考は時間である

『同書』P117~

思考は時間である




精神が無秩序に気づくとき、その気づきから、徳としての秩序が花開きます。そして、それがほんとうに深く、誠実に据え置かれたとき、わたしたちは、この問いにーー聖なるものが、はたしてあるのだろうか、という問いに進むことができます。そうなるには、時間と思考の性質を探究しなければなりません。

なぜなら、時間が停止しなければ、精神は、聖なるもの、新しいものを何も知覚できないからです。そこで、思考は時間と関係があるのか、時間とは何なのかを探究することが、とても重要なのです。時計で測る時間、今日、昨日、明日という時間は明らかにあります。ここからあそこへ行く計画、あることをする計画。言語を学ぶこと、自動車の運転を学ぶこと、技術的な作業のやり方を学ぶことには、時間がなければなりません。これはすべて瞑想です。


それでは、経時的(けいじてき・文字どおりで「時が経つ」)な時間とは別の時間とは何でしょう?


時間とは、ここからあそこへの心理的な運動であり、同様に、ここからあの家への物理的な運動でもあります。ですから、こことあそこのあいだの運動が時間です。こことあそこのあいだの空間、その空間をカバーするのが時間、あそこへの運動が時間です。そこで、すべての運動は時間です。物理的にここからパリへ、ニューヨークへ、その他どこでも好きなところへ行くには時間が必要です。

そして、「あるがまま」を「あるべき」に心理的に変えるのにも時間が、その運動が必要です。少なくとも、わたしたちはそのように考えます。そこで、時間とは、空間のなかの運動ーーこれとしてある、あれを達成する、という思考によって創り出された運動です。そうであれば、思考は時間であり、思考は時間のなかの運動です。このことは、みなさんにとって何か意味がありますか?わたしたちはともに進んでいますか?


これには、とてつもない注意と配慮、非個人的な、遊び半分ではない感覚が必要で、そこには、欲望はまったく入り込みません。大きな配慮が求められ、その配慮がそれ自身の秩序を、つまり、それ自身の規律をもたらします。


さて、思考は、「あるがまま」と「あるべき」のあいだの運動です。思考は、その空間をカバーする時間であり、心理的に「これ」と「あれ」のあいだの分断がある限り、時間のなかの思考の運動が存在します。ですから、思考とは、運動としての時間なのです。では、「あるがまま」の観察だけがあるとき、運動としての、思考としての時間はあるでしょうか?ーーそれは、観察者と観察されるものとしての観察ではなく、「あるがまま」を超えようとする運動のないただの観察、ということです。

精神がこれを理解することは、とても重要です。なぜなら、思考はとてもすばらしいイメージを、畏敬すべき神聖なるものとして創り出すことができ、すべての宗教はそうしてきたからです。すべての宗教は思考に、信念や教義や儀式として組織化された思考にベースを置いています。そこで、時間と運動としての思考について完全に理解しない限り、精神はそれ自身を超えられないでしょう。
posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする