2020年01月31日

その7

さて、説明をしましょう。なぜなら、みなさんは、それなりに理性的で知性的な人々で、納得できるはずだからです。ですが、知性や理性を通じてその真理を実際に知ることは、決してないでしょう。説明されて納得するかもしれませんが、しかし、納得することと真実を知覚することは違います。この二つには、とても大きな違いがあります。何かを納得した人は、何が真実かを見ることはできません。納得した人は、また納得できなくなって、違ったやり方でまた納得するでしょう。ですが、真実を見る人は「納得」しません。彼は、それがただ真実だと見ます。



さて、わたしは道を知っている、わたしは人生のすべてを知っている、究極のリアリティを経験したーーその物証があるーーと言う指導者は、明らかに、自分自身と自分のビジョン、そして自分のビジョンを貧しい聞き手に伝えることに非常な関心をもっています。指導者は、自分が正しいと考える何かに向かって人々を導きたいのです。ですから、指導者には、政治的指導者、社会的指導者、宗教的指導者であれ、あるいは、あなたの妻や夫であれ、そのような人たちには愛はありません。

彼は愛について語り、愛し方を教えると言うかもしれないし、愛が行うとされているすべてのことを行なうかもしれません。ですが、実際の愛の感情はそこにはありませんーーなぜなら、彼は指導者だからです。愛があれば、みなさんは指導者であることをやめます。愛は何の権威も行使しませんから。そして、同じことは追随者にもあてはまります。追随した瞬間、みなさんは権威を受け入れるのですーー天国に安全な片隅を、あるいは、この世界に安全な片隅を、安心を与えてくれる権威です。追随するとき、自分の家族の、人種や国家の、安心を求めているとき、その追随は、安全でありたいと願っていることを意味しており、安全を求める人は、愛の質を何も知りません。有徳である人も同じです。謙遜(けんそん)を培(つちか)おうとする人が、有徳でないのは確かです。謙遜とは培うものではないのです。



鋭敏で、探求する精神、ほんとうに耳を傾ける精神は、真理である何ものかを即座に知覚する、という、このことを、わたしはみなさんにお示ししようとしています。ですが、真理を「あてはめる」ことはできません。みなさんが真理を見るなら、それは、みなさんの意識的努力なしに、それ自身で独自に働くのです。

さて、不満が自由の始まりですが、不満をどうにか処理しようと試みている限り、その不満を消そうとして権威を受け入れている限り、安全な経路に入り込んでいる限り、みなさんはすでに、現に感じている純粋素朴な感覚を失っています。わたしたちのほとんどは、仕事や人間関係、あるいは何にせよ、自分がしていることに不満です。みなさんは、何かが起こることを、変化することを、動くことを、突破することを望んでおられます。ですが、それが何であるかは知りません。

常に探し求めることが、探求がありーー若くて、オープンで、鋭敏なときにはとくにそうですーーしかし、のちに歳をとると、自分の習慣、仕事に落ち着くのです。なぜなら、家族は安全だし、妻はどこにも行かないでしょうから。それで、このとてつもない炎は消え、みなさんは尊敬すべきちっぽけな「考えなし」になります。



これまで言ったように、何かからの自由は自由ではありません。みなさんは怒りから自由になろうと試みます。わたしは、怒りから自由になるべきではない、とは言いませんが、それは自由ではない、と言います。貪欲を、狭量を、嫉妬を、その他諸々を克服するかもしれません。ですが、まだ、自由ではありません。自由とは、精神の質です。その質は、非常に慎重で丁寧な探し求めや探求によっても、非常に慎重な分析や観念の組み立てによっても、もたらされはしません。ですから、わたしたちが求めている自由とは、たとえば、悲しみからの自由のように、常に何かからの自由としてある、という真理を見ることが、まさに重要なのです。悲しみからの自由がない、というわけではありません。ですが、それからの自由を求めるのは単なる反応でしかなく、したがって、あなたは悲しみからは解放されません。わたしが言っていることは、は、はっきりしていますか?
posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年01月30日

その6

意志とは何でしょうか?

わたしたちはこうなるだろう、こうであってはならない、何かになるために必死に努力しよう、学ぼうーーこれらはすべて、意志の行使の形です。さて、この意志とは何で、それは、どのように形づくられたのでしょう?

明らかに、欲望を通じて作られたのです。わたしたちのたくさんの欲望とそれにともなう欲求不満、強迫衝動、そして、達成は、言ってみれば、縒(よ)りあわされた綱、ロープです。それが意志です。違いますか?みなさんの矛盾しあうたくさんの欲望が縒りあわされて、非常に丈夫で強力なロープになり、みなさんは成功へ、自由へ向かってそれをよじ登ります。さて、欲望は自由を与えるでしょうか?それとも、自由への欲望そのものが自由への否定なのでしょうか?どうか、自分自身を、自分の欲望を、自分の野心を、自分の意志を見つめてください。

もし、何の意志ももたず、ただ動かされているとしたら、それもまた、意志の一部ですーー抵抗しないで流れに乗る、という意志です。この欲望の重みを通じて、ロープを通じて、わたしたちは神に向かって、至福に向かって、あるいは何にしろ、何かに向かって登ろうと願うのです。



そこで、わたしはお尋ねしているのです。みなさんの意志は、果たして、解放の要素なのでしょうか、と。自由は、意志を通じてもたらされる何かですか?それとも、自由は、まったく違った何か、反応とは何の関係もなく、能力を通じても、思考を通じても、経験や規律、あるいは、絶え間ない同調を通じても達成されない何かでしょうか?

あらゆる本が語っているのは、こういうことです。パターンに同調しなさい、そうすれば、あなたは結果として自由になるだろう。このすべてを行ない、服従しなさい、そうすれば、いつかは自由があるだろう。わたしに言わせれば、すべて、ナンセンス以外の何ものでもありません。なぜなら、これからお示しするように、自由は、終わりではなく、始まりにあるからです。何かの真実を見ることは可能です。そうではありませんか?空が青いことを、みなさんは見ることができますーーそして、数千の人々がそう言いますーーしかし、みなさんは自分自身で、なるほどそのとおりだ、と見ることができるのです。

みなさんがすべてに鋭敏であるなら、木の葉の動きを自分自身で見ることができます。そもそもの始まりから、いかなるかたちの強制も調整も同調も通さず、真実であるものを本能的に知覚する能力があるのです。さて、みなさんに別の真理をお示ししましょう。




わたしは、指導者、追随者、有徳の人は愛を知らない、と言います。みなさんにそう言います。指導者であるみなさん、追随者であるみなさん、有徳者でありたいと頑張っているみなさん、わたしは言います。

みなさんは愛を知りません。


いまは、反論なさらないでください。「証明しなさい」と言わないでください。みなさんに説明し、お示ししますが、まずは、どうか、防衛的にも攻撃的にもならず、肯定したり否定したりせずに、わたしが言わなければならないことに耳を傾けてください。

わたしは言います。指導者、追随者、あるいは、有徳者であろうとする人は、そのような個人は、愛とは何なのかを知らない、と。

この言葉に、みなさんがほんとうに耳を傾けるなら、攻撃的でも従順でもない精神で聞くなら、そのときは、それが実際に真理であることが見えるでしょう。その真理が見えないなら、それは、みなさんが見たくないから、あるいは、自分の指導力に、追随に、あるいは、いわゆる有徳であることに、この上なく満足していて、ほかのあらゆることを否定するからです。しかし、すべてに鋭敏で、窓の外を見るときのようにオープンになって探求するなら、きっとその真実が見えます。そうなるはずです。



posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年01月29日

その5

このように、わたしたちのなかには常に要求が、自由への衝動があるのですが、わたしたちは決してそれを理解せず、そこへ分け入らず、この深い本能的な要求を決して見つけ出そうとしませんでした。


若いころには不満で、あるがままのものごとや伝統的な価値観の愚かさに満足できなくても、歳をとるにつれて、少しずつ社会が確立した古いパターンにはまり、そして、道を失います。純粋な不満を、これは充分ではない、ほかに何かがあるはずだ、という不満をもち続けるのは、とても難しいことです。わたしたちすべてが、その感覚を、他なるもの(oterness)の感覚を知っているのですが、まもなく、それを神に、あるいは涅槃に翻訳し、それから、関連の本を読んで、道を失います。ですが、この他なるものの感覚、それを探し求め、探求することは、わたしが思うに、これこそが、ほんとうの衝動のーーあらゆる政治的、宗教的、伝統的影響から自由になりたい、その壁を突破したい、という、ほんとうの衝動の始まりなのです。それを探求しようではありませんか。


たしかに、いくつかの種類の自由があります。政治的な自由。ものごとのやり方、ノウハウを知っているときの、知識が与える自由。世界中をまわれる金持ちの自由。書くことができ、自分を表現でき、明晰に考える能力による自由。それから、何かからの自由があります。抑圧からの、嫉妬からの、伝統からの、野心からの、その他からの自由です。そして、結果として最後に得る(とわたしたちが希望する)自由がありますーー規律の結果として、徳を獲得した結果として、努力の結果として、ある種のことを行うことを通じて得たいと願う最終的な自由です。つまり、能力が与える自由、何かからの自由、そして、徳のある人生の結果として得られるはずの自由ーーこれらが、わたしたちすべてが知っている自由のタイプです。



さて、こうしたさまざまな自由は、単に反応にすぎないのではありませんか?

みなさんが「わたしは怒りから自由になりたい」と言うとき、それは単なる反応です。怒りからの自由ではありません。そして、みなさんが徳のある人生の結果として、苦闘や規律によって得られると考える自由、それもまた、いままでのあり方への反応なのです。


どうか、慎重についてきてください。なぜなら、わたしは、みなさんには慣れづらいであろう、その意味で少々難しいことを言おうとしているからです。何かからの自由ではない自由の感覚があります。何の原因でもなく、しかし、自由である状態です。おわかりですか。

わたしたちが知っている自由は、常に意志によってもたらされます。そうではありませんか?

わたしは自由になる。わたしは技術を学ぶ。わたしはスペシャリストになる。わたしは勉強する。その意志が、わたしに自由を与える。そこで、わたしたちは、自由を獲得する手段として意志を使います。わたしは貧乏でいたくない、だから、豊かになるために能力を、意志を、すべてを行使する。あるいは、わたしはうぬぼれが強いから、うぬぼれないように意志を行使する。このように、わたしたちは、意志の行使を通じて自由が得られる、と考えます。ですが、意志は自由をもたらしません。話は逆です。それをこれからお話ししましょう。
posted by 無来 龍 at 10:45| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする