2020年01月14日

新しい意識

20190328_151914.jpg『真の瞑想ーー自らの内なる光ーークリシュナムルティ・トーク・セレクション2』(コスモス・ライブラリー2017)



新しい意識


現在の文化と社会構造に根源的な変化をもたらすには、新しい意識、そしてまったく新しい倫理が必要です。これは明白なことなのですが、左翼陣営も右翼陣営も革命家も無視しているように見えます。どんな教義も方式もイデオロギーも、古い意識の一部です。どれも思考の産物で、思考の活動はーー左翼、右翼、中道へのーー断片化です。この活動は不可避的に、右翼あるいは左翼の流血か全体主義につながります。これが、わたしたちのまわりで起こっていることです。

社会的、経済的、倫理的な変化の必要性は見えても、それへの応答は古い意識からのものであり、思考が主要な役割を演じています。人類がはまりこんでいるごたごたや混乱、そして悲惨は古い意識の領域にあり、すべてのーー政治的、経済的、あるいは宗教的なーー人間活動を根底から変えない限り、お互いの、そして地球の破壊をもたらすだけでしょう。分別ある人間には、あまりにも明らかなことです。


人は、自分自身の光でなければなりません。この光が法(law)です。ほかに、法はありません。ほかのすべての法は思考によって作られていて、それゆえに断片的で矛盾しています。自分自身の光であるとは、どんなに合理的で、論理的で、歴史的であっても、そして、どれほど説得力があっても、他の光には従わない、ということです。権威の、教義の、結論の暗い影のなかにいるのでは、自分自身の光にはなれません。

倫理は、思考によって作りあげられたものではありません。倫理は、まわりからのプレッシャーの結果ではなく、昨日にも伝統にも属していません。倫理は、愛の子どもであり、愛は、欲望や快楽ではありません。性的な、あるいは感覚的な楽しみは、愛ではありません。


自由とは、自分自身の光であることです。それは、抽象概念ではなく、思考によって生み出されたものでもありません。実際の自由とは、依存や執着からの、経験への渇望からの自由です。

思考の構造そのものからの自由とは、自分自身の光であることです。すべての行為はその光のなかで起こり、したがって、決して矛盾がありません。矛盾は、その光が行為と分離しているとき、行為者が行為と分離しているときにのみ存在します。

理想や原理は思考の不毛の運動であって、この光との共存はあり得ません。一方が他方を否定するのです。観察者があるところには、この光、この愛は存在しません。観察者の構造は思考によって作りあげられたものであり、決して新しくはなく、決して自由ではありません。「どのように(how)」もシステムもなく、練習(practice)もありません。行為としての「見る(seeing)」があるだけです。

みなさんは、他者の目を通じることなく見なければなりません。この光、この法は、みなさんのものでも、他者のものでもありません。ただ光があるだけです。それが愛です。


※写真は山中湖からの富士山です。今年もよろしくお願いします。
posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする