2020年01月17日

時間は心理的な……その3

これは、みなさんがそこへお入りになってみるなら、とてもすばらしいことです。思考は時間です。なぜなら、思考は蓄積された記憶の応答だからです。その記憶は、時間をかけて蓄積されてきました。それは、知識の結果です。知識を蓄積するには時間が必要で、知識は経験の蓄積から生まれます。経験は限られており、ですから、知識も限られていて、記憶も限られ、したがって、思考も限られています。

さて、わたしは言いました。思考は時間である、と。もし、わたしたちが時間を使って、つまりは思考を使って、いまの自分を変えようとするなら、それは徒労に終わるでしょう。ですが、もし、わたしが見るならーーわたしが見るのではなく、知覚があるならーーすべての時間はいまに含まれている、という事実の知覚があるなら、そのときは、何が起こるでしょう?何を問いかけているか、おわかりですか?

わたしは暴力的で、無秩序のなかに生きていて、そして、その無秩序を知覚します。さらにはまた、すべての時間はいまである、という事実と真理を見ます。わたしのその知覚は非常に鮮烈で、明晰であるはずで、その明晰さは時間の産物ではありません。




そこで、わたしたちは、知覚とは何かについて、話し合わなければなりません。明晰に見るとは、どういうことですか?ーーわたしたち自身をあるがままに見るだけでなく、世界に何が起こっているかをも明晰に見るのです。世界で起こっていることは、明らかに分断の広がりですーー国家の、宗教の、党派の、グルたちの、その他諸々の分断です。彼らのほとんどが、政治的、宗教的に、平和と団結について語ることでしょう。彼らは、彼らの団結に、わたしたちすべてを引き入れたいのです。



このように、外面的には、このおびただしい無秩序があり、その無秩序の究極的な表現は戦争、殺し合いです。それに、わたしたちもまた無秩序のなかで生きています。その無秩序は時間を通じてもたらされたものです。わたしたちは何世紀もその無秩序とともに生きてきました。ですから、古い意味での時間は問題解決にはなりません。それでは、知覚とは何でしょう?

みなさんは、偏見があるときに、何かを明晰に見ることができますか?もちろん、できません。では、個人的だったら、どうでしょう?わたしが傷つくから、何も言わないでくれ。わたしの意見は絶対だ、わたしはよくよく考えたのだから、自分の考えに固執する。このような要素はすべて、個人的なものでーー客観的でも明晰でもなくーー知覚を妨げます。色眼鏡をかけているようなものです。あるいは、映像を撮影してフィルムに記録するカメラのレンズのようなものですが、フィルムがすでにいっぱいなら、それ以上の写真は撮れません。

そこで、わたしたちは溜め込みますが、それは、もうそれ以上は見られないことを意味しています。しかし、それを注視して、捨て去るなら、それで終わりになります。つまり、きわめて明晰で、強力で、活動的な脳になり、個人的な偏見も、何かに対する執着もなくなるのです。そのような知覚があるとき、その知覚は時間の要素ではありません。ですから、無秩序があるときには、それが瞬時に見えます。原因もすべての分断も見えます。そして、それは即座に終わります。つまり、翌日にまた飛び出してくることはないのです。

一度危険を、毒蛇を見たら、それと戯れることはありません。それで終わりです。ですが、わたしたちには危険が見えない。なぜなら、偏見だらけで、精神が差量で、自分自身への懸念でいっぱいになっているからです。
posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする