2013年12月17日

ハチヤの起源伝承

チャセンは、山陰ではハチヤ(鉢屋)と呼ばれたが、出雲のハチヤの起源伝承を記録した「本朝鉢屋之来由並雲州苫之由緒之事」によると、鉢屋の先祖は、もと平将門(まさかど・?〜940)と藤原純友(すみとも・?〜941)の家来であった。

将門が関東で、純友が四国で乱を起こして敗北したので、京都に上がり、盗賊になったが、空也上人によって改悛させられ、京都の四条・五条の河原に小屋をかけ、念仏を唱え、瓢箪・鉢をたたきながら修業し、非人を制したので、洛中洛外が静まった。その後、諸国の国司・守護も彼らの仲間を呼んで、領内に置き、盗賊を防がせたという(倉光清六「空也上人とハチヤ伝説との交渉」『民族と歴史』六巻二号)。

また、京都の空也堂にも、「鉢タタキ(ハチヤ)の先祖は、将門の部下の将卒であったが、将門の滅亡後、死罪に処せられるところを空也上人に助けられ、空也堂の僧徒となった」という伝承があるという(倉光清六『前掲論文』)。

※空也上人の寺とされる六波羅蜜寺の資料(六波羅蜜寺発行)を出してみましたが、上人の出自がはっきり記してありません。私の記憶では、この方は、皇族の出身者だったとおもいます。寺に置かれた平清盛の像は有名です。



ハチヤ(鉢タタキ)の先祖が将門の家来であったという伝承は、「将門」がショウモンと音読みされ、ハチヤ(鉢タタキ)の別称である声聞師の「声聞」もショウモンと読まれることから生まれたといわれているが、これらの伝承は、ハチヤ(鉢タタキ)の先祖が東日本出身で、平安時代に反乱に参加して敗北したことと、悪人とみなされていたことを伝えていると思われる。また、ハチヤ(鉢タタキ)の仲間が、国司・守護によって領内に置かれたという伝承も、古代にハチヤの先祖が諸国に移住させられ、国司などの管理下に置かれたことを伝えているとみられる。



部落には、部落の古代起源を伝える、このような伝承がたくさんあるが、部落近世起源説を唱える人たちは、自説にとって都合が悪い、こうした伝承を完全に無視しているのである。

野間宏(『朝日ジャーナル』1977年8月26日号)によると、東京都練馬区の寺に残る板碑(いたび)の「弘安三年」(1280年)の文字は、練馬部落の形成が13世紀に始まることを示唆しているという。しかし、エミシの捕虜の移配が8、9世紀に行われたことを考えると、練馬部落が形成された時期は、鎌倉時代ではなくて、平安時代かもしくは奈良時代と推定されるのである。
posted by 無来 龍 at 11:22| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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