2014年01月05日

私は今後、地元の石清水八幡宮に参拝する際は、水の神たる「水分社」に向かう。
「水分社」は水の神に向かう入り口と捉え、いわば玄関として其所に立つ。
つまり、私の地元の神は水の神である。

このように書く意味がある。石清水八幡宮の末社・水分社(みくまりしゃ)の祭神は、「国之水分神(くにのみくまりのかみ)」とされる。
しかし、私の水の神は大神様であり、「国之」神ではない。地球の水の大神、御神名は龍宮の乙姫様である。


私の大望は、石清水八幡宮を大神様に御返しする事にある。


私は『おほもとしんゆ』の信仰者として、今後も生きる決意を新たにしていくためにも、かつての人間がつくった「神」にむかうのではなく、地球の大神様に向かっていきたい。強く、そうおもう。

神を語るに、〇〇神とか〇〇命とするのは間違っている。実在した祖先なら「上」であるし、実在を感じられる存在ならば「かみ」と呼べば良いだろう。
水の神様、風の神様で良く、山の神様、木の神様で良いのである。
神に本来は名前はなかったのだ。


水にたとえれば、水は国境など持たない。持たない存在であるならば、「国之水分神」とするに無理がある。
水は物理的境界すら無い。空に、空中に、海に川に湖に、水は何処にでも満ちることが出来る。忘れてならないのは、大地の下にも水は流れて居て、おそらく地球全域を流れて居る。

龍宮の乙姫様の御実体は、単に海におわす大神とみては間違う。水は氷に成り極地に在り、大気に漂い風を生み、高い山々の氷河とさえ成っている。
大地の下に溜められて、地上の川の様な流れをもち、何処へ流れているか誰も知らない。

このような存在を、「国之」と限定する。水の働きの一部をとり、「神」としてまつる。だから、人間がつくった「神」は間違っているのである。
大神の実体を認めない人間が、水の切れ端のような一部分を「国之」と呼ぶ、こんなおかしなでたらめが、「神」である。


大神様の「玄関」に立とうとするならば、それが神社の意義ならば、「玄関」の大小よりは「わたしの心」に明確な神を持たなければならないだろう。「わたしの心」こそ大神様に向かう玄関とするべきだろう。


その玄関を豊かに広く意義ある場所にするために、私たちは日々を生きるのであろう。
今年を力強く踏み出そう。
posted by 無来 龍 at 13:20| Comment(4) | 日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
龍さん、今頃すみません。飛騨一ノ宮・水無神社の祭神の「みくまりの神」と同じなんでしょうか。
Posted by まゆみ at 2014年01月12日 18:43
同じと考えてよいとおもいますが、決めたのは「あちら」ですから、私は答えようがありませんが、「飛騨ー宮水無神社の概説」(水無神社発行)にこうあります。

……社名の水無は「みなし」(水成)または、「みずなし」とも読み、俗に「すいむ」と音読することもあるが、水主の意味である。………

聖なる位山の水は、一方は日本海に、一方は太平洋に流れていくために「分水嶺」と位山をみます。水に関係の深いところなのです。
Posted by 龍 at 2014年01月12日 19:32
ありがとうございます。

ついでに、前に読んだサイトに、飛騨の神さまはスクナあるいは両面スクナと言われる神さまで、桓武天皇時代に暴れ者の鬼として抹殺された神だとあったのですが、「スクナ」は不比等がイタケルをバラバラにし出雲に追放したそのうちの一体「スクナビコナ」と似ているので、そうするとスクナは応神の可能性がありそうですね。

「すいむ」で最初「崇神・首露」を思い浮かべましたが、「スクナ」も少し似ています。
Posted by まゆみ at 2014年01月12日 20:36
両面スクナも、石渡説で解けそうですが、今は分かりません。東にも西にも、顔を向けて、使い分けていたように感じると、前期百済系の人々が東=日高見国にも西=倭国政権にも同調しない「独立国」を目指した象徴なんじゃないか、そんなふうにもおもわれます。
Posted by 龍 at 2014年01月12日 22:16
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