2014年04月11日

津軽俘囚

次に、この反乱と津軽俘囚の関係について考えてみたい。


この点については、津軽俘囚は反乱に参加しなかったとする従来の説と、津軽俘囚は当初から反乱側についていたとする熊田亮介(「前掲論文」)の説があり、最近は熊田説を支持する学者が多いようである。しかし、次に述べるように、熊田説には問題がある。


『三代実録』元慶3年正月11日条には、前年の12月に、渡嶋の俘囚3000人とともに、津軽俘囚100余人が秋田城に来て帰順したとあり、この津軽俘囚は「賊に連ならざる」者と書かれているが、熊田亮介は、「この百余人を除く津軽俘囚は反乱側についていた」と考え、この100余人は、そのなかから出た゛寝返り集団゛とみている。


また、『三代実録』元慶3年(879)3月2日条には、正月13日付の中央政府の「奥賊」「降虜」攻伐命令の撤回を要請した保則の奏言が記されているが、熊田亮介は、「奥賊」を津軽俘囚とみて、津軽俘囚は乱の当初から反乱側に加担したと考えている。しかし、6月28日付の出羽国の奏言には、津軽俘囚が反乱側についているかどうか分からないと記されており、この奏言が書かれたのは、反乱が起こってから既に三ヶ月以上も後であるから、もし津軽俘囚が反乱の当初から反乱俘囚側に加担していたら、このように記されるはずがないのである。


津軽俘囚が当初から反乱に加担していなかったことは、同じ奏言に、津軽が、「賊地」と記されずに、「津軽地」と明記されていることからも知ることができる。保則は、その後の奏言でも、津軽が「賊地」であるとは一度も書いていない。反乱俘囚軍の拠点がどこであるかを把握し、中央政府に報告することは、鎮圧作戦の最高責任者としては最も重要な責務の一つであるから、津軽が「賊地」となっていたら、保則は必ずそのことを明確に書いて、報告したに違いないのである。



さらに、反乱が終息した状況からみても、津軽俘囚が当初から反乱側についていたとは考えられない。同じ6月28日の奏言にあるように、多数の勇猛な津軽俘囚が反乱俘囚に同調したら、「大兵」をもってしても制御することが難しいと考えられるので、中央政府が「大兵」を投入することなく、この反乱を鎮圧できたのは、津軽俘囚が反乱側に加担しなかったことを物語っている。

津軽俘囚は、出羽俘囚などを通じて、出羽の国司の苛政を知っていたから、彼らの多くは、心情的には反乱俘囚を支持したと思われる。しかし、反乱側を心情的に支持する津軽俘囚たちも、律令国家が日高見国を滅ぼしたことを伝承などで知っていたから、律令国家の反撃を警戒して、反乱に加わらなかったと推測されるのである。したがって、津軽俘囚が当初から反乱俘囚に加担していたとみたり、津軽俘囚を「奥賊」とみる熊田説は成り立たないのである。

では、「降虜」は、どこの反乱俘囚であろうか。



既に述べたように、878年(元慶2)10月13日に、中央政府は、「反乱俘囚が降を乞うているが、言うことと、為すことが異なるようであれば、一挙にこれを誅滅せよ」という命令を出している。この反乱俘囚については、小野春風が「自分が自ら賊地に入って、降書を取り、降心を確かめた」といっており(既述)、「賊地」は春風が入ったと記されている上津野村などの12村とみられるから、「降虜」は、前年降伏を乞うて来たが、その言動に疑問があった、上津野・火内・榲淵などの奥地の反乱俘囚を指すと考えられるのである。



以上のように、「奥賊」と「降虜」は、従来の説の通り、上津野などの奥地の俘囚を指すとみられるが、この反乱の約60年後に起こった天慶(てんぎょう)2年(939)の反乱においても、反乱俘囚の拠点は秋田郡の北辺である。

『日本紀略』天慶2年(939)4月17日条に、「出羽国、馳駅(ちえき)して俘囚反乱の状を言す」とあり、『貞信公記』(ていしんこうき・藤原忠平(ただひら)の日記)の同日条にも、「出羽国、馳駅して言上す。凶賊乱逆し、秋田城軍と合戦する事等」とあって、出羽国の俘囚が反乱を起こし、秋田城軍と戦っている。


『貞信公記』天慶2年(939)5月6日条には、

出羽国が伝令を送ってきた。その報告書によると、賊が秋田郡に到来し、官舎を開き、彼稲を掠取し、百姓の財物を焼き払った。また、異類を率いて来るといっている。云々。


とある。反乱俘囚軍が秋田郡に到来したということから、今回の反乱の震源地も、元慶の乱と同じように秋田郡の北辺地域とみられている(関口明『蝦夷と古代国家』)。なお、反乱俘囚が率いてくるといった「異類」については、津軽俘囚と渡嶋俘囚とみる説が有力である。

7月18日には、中央政府は「賊徒を追討」することなどを出羽国に命ずるとともに、秋田城司、介の源嘉生をこの反乱のことで譴責(けんせき・過失などをきびしくとがめせめること)しており(『本朝文粋』)、8月11日にも、出羽国の伝令が到着している(『日本紀略』・『貞信公記』)。

こうしたことからみて、この反乱もかなりの規模であったと思われる。古代日本国家の差別政策に対して、出羽国北部の俘囚は、10世紀まで激しく抵抗したのである。

※第4章の終わりです。
posted by 無来 龍 at 09:26| Comment(4) | 日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 初めまして。私は広島県東広島市に住会社員 西川 雄二と申します。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100070522073869
先生のブログ「エソ370人」より拝読させていただきました。私は今は妻の
西川家を継いでいますが、実家は阿部で11年前まで阿部雄二と称していました。実家の阿部家の本拠地は愛媛県今治市伯方島です。なぜ今先生の記事を読んだかというと。1昨年コロナ禍の中この世にいろいろ疑問を抱くようになり、陰謀論のような発信を見てて(多くの日本人のDNA Y染色体 はハプログループDであり元は正統なユダヤ人だ)というような日ユ道祖論
にことに関心があり、自分のDNAを検査機関に依頼した所私はハプログループ c1a1という分類だとわかりました。調べてみると日本では1番古くからいる種族で多くの種族と同じようにアフリカから来たそうす。
1番古くからいるのに同じ縄文人のDが日本人の40%近くいるのにc
Posted by 西川 雄二 at 2023年05月22日 15:33
初めまして私は広島県東広島市に住む会社員で西川 雄二と申します。先生の「エソ370人」から読ませていただき俘囚・蝦夷・安倍氏の記事を拝読させていただき非常に感銘しました。今は妻の家を継ぎましたが。もとは愛媛県今治市伯方島の阿部(元は安部)で11年前は阿部 雄二と称していました1昨年コロナ禍の中ネットで陰謀論を語る方の話で日ユ道祖論の中に (日本人のハプログループY染色体Dが正当なユダヤ人)という論がありまして。 自分のDNAが、何か気になって調べたらCと出ましたがその機関は小分類が判明せず。そのうちC1とC2全くに近く違うのがわかり、少しお金がかかりましたが、再調査しc1a1判明しました。日本に最も古くからいる種族で多くと同じようにアフリカから移動したそうです。日本人の人口(男性)の40%近くが同じ縄文人のDで一番古いc1a1はたった5%程らしいです。なぜそう少ないのが非常に疑問に思いましたが一説の九州の多く住んでいたc1a1は鬼界大カルデラの爆発の災害に会い多くが滅んだとかの説かなと思っていました。
その後去年秋、何気なくツイッター仲間の人の紹介で、東京にお住いのある歴史を研究されている先生とつながり、その方も安部氏の子孫でその方の家の口伝では出雲族がc1a1で安部であり東北に追いやられ蝦夷とされたというのです。日本に最も古くからいるが、大和族(D)に追われ絶滅危惧種となり安部姓を隠してきたと家の口伝であったそうです。その方も最近自身がc1a1と判明したそうです。出雲族とc1a1
のつながりに決定的な根拠はなかなかないのですが、島根の縄文人の人骨4体の内2体がc1a1であったということで出雲族がc1a1かもしれないという私が知るところのわずかな情報です。さら山口におられる古代史の研究家の先生に最近同じことをお聞きしたところ出雲族で蝦夷、安倍氏に朝廷に反発し滅亡され安部貞任の弟、安部宗任の一族が伊予今治に流され後 九州に飛ばされた中で伊予に残った安部の可能性が高いということです。一番古い民族がc1a1で出雲族になるということだそうです。故郷の伯方島には阿部という姓はとても多いですが、肝心なルーツのついて村上氏と共に水軍であったらしいという話しか分かりません。前出の東京の先生によると戦後頃まで安倍というの(阿部として)を隠していたのではないかと言われています。わが先祖の墓も古くは(江戸後期)安陪です
 以上私たちの思い込みの様な確実性のない話ですが、先生の記事を拝見させていただいた安倍の子孫かもしれない者として書かせていただきました。最近はブログをお休みになられているようでこれを読んでいただけるかわかりませんが、突然長文失礼しました。
Posted by 西川 雄二 at 2023年05月22日 16:20
西川さん、初めまして、こんばんは。

もう気付かれたかも知れませんが、私は本の著者ではありません。私の伝えたい事の必要な事柄として、ここに書き写した本を紹介しています。

この記事は、『古代蝦夷(えみし)と天皇家』(1994年三一書房)著者石渡信一郎さんの本からの書き写しです。

書き写しですが、私は、この石渡信一郎さんの古代史説が正しいと考えています。一度や二度の読書では把握が難しい石渡古代史ですが、ここに私は、古代日本の謎が明かされたのだと、この石渡説が天皇の奴隷にされた東北の蝦夷の正体に迫るものであると考えています。

熱心に読んでいただきありがとうございます。



Posted by 龍 at 2023年05月23日 21:45
 こんにちは。早速のご返事大変恐縮です。歴史というの悲しい事もありますが、私達に生きる力とともに伝承されているものは数え知れないほど多くありますね。とても勉強になります。ありがとうございました。
Posted by 西川 雄二 at 2023年05月24日 10:50
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