2016年08月17日

隠された住吉大社の神主、大伴氏

 住吉大社の神主家は津守(つもり)氏で、『延喜式』神名帳には、摂津国住吉郡の大海(おほわたつみ)神社(現在住吉大社の境内にある摂社大海(たいかい)神社)について「元、津守氏人ノ神ト名ヅク」と注記している。津守(つもり)という氏の名は、「津を守る」という職掌にちなむ。

 「神功摂政前紀」(仲哀天皇9年12月条)には、「津守連の祖田裳見宿禰」がみえる。『日本書紀』によると、欽明4年(543)11月に津守連が百済に、皇極元年(642)2月に津守連大海(おほあま)が高句麗に、斉明5年(659)7月に津守連吉祥(きさ)が外交使節として唐に派遣されている。欽明4年と皇極元年の記事は信頼できないが、659年に津守連吉祥が遣唐使として派遣されたことは史実とみられる。


 津守連は天武時代に宿禰に改姓しており、『新撰姓氏録』摂津国神別、津守宿禰の条に、「尾張宿禰と同じき祖。火明命(ほあかりのみこと)の八世孫、大御日足尼(おほみひのすくね)の後なり」、和泉国神別、津守連の条に、火明命の男、天香山(あまのかごやま)命の後裔とあるので、津守氏は崇神(大彦)系の氏族とみていい。

 そこで、津守氏の祖神オホワタツミは崇神(大彦)の霊ということになるが、津守連大海の「大海」がオホアマと読まれていることから、オホワタツミ(大海)は、オホアマとも読まれていたとみられるので、この崇神(大彦)の霊は、前期百済系倭国(大加羅)時代にオホワタツミノカミ・オホアマノカミなどとも呼ばれていたと考えられる。



 しかし、次の①~③の理由から、429年から534年まで大津(住吉津)にオホアマ(大海)神を祭っていた最高位の神主家はワニ氏=春日氏で、534年に大伴氏と交替したとみられる。


 ① 『古事記』のトヨタマヒメ神話では、海神の娘トヨタマビメは「八尋和邇(やひろわに)」の姿になり、海神の国に帰るが、トヨタマビメの父の海神は、応神(昆支・武)の霊、イタケルの後身である。

 ワニ氏は『古事記』ではすべて「丸邇」、『日本書紀』ではすべて「和珥」と書かれているが、その他の文献史料では「和邇(爾)」が多く用いられている(岸俊男『日本古代政治史研究』。19頁)。これは、倭王倭武が『古事記』ではすべて「倭建」、『日本書紀』ではすべて「日本武」と書かれているのと同じである。ワニノ臣(春日臣)を憎む藤原不比等が、708年の新神祇制度施行によって、ワニノ臣(春日臣)の祖を海神ワタツミともしたと考えられる。『新撰姓氏録』大和国神別、和仁古(わにこ)の条に「大国主の六世の孫、阿太賀田須(あたかたす)命の後なり」とあるのも、不比等のこの企みの証拠である。


 ② オホアマ(大海)神は「偉大な海神」であるばかりではなく、「偉大な軍神」であった。第7章で詳しく説明するように、ワニ氏(後の春日氏)は前期百済系倭国時代以来、「杖刀人首(軍総司令官)」で、三輪山の崇神(大彦)の霊を祭る最高位の神主だったので、ワニ氏が最高位の神主として大軍神のオホアマ(大海)神を大津(住吉津)で祭っていたと考えられる。


 ③ 日下雅義(『古代景観の復原』)によると、「神功紀」摂政元年(201。辛巳年)2月条にみえる「大津」は住吉津(すみのえのつ)であり、仁徳30年(342。壬寅年)9月条にみえる「大津」は堀江開削によって新設された難波津(なにはのつ。現在の大阪市中央区の高麗付近)を指すという。342年(壬寅年)は、実際は崇神(大彦)が前期百済系倭国を建国した年なので、当時、難波津が「大津」と呼ばれたことを『日本書紀』は非公式に知らせている。

 そして、仁徳30年(342。壬寅年)は、干支3運下げると継体時代の522年(継体16。壬寅年)にあたるので、522年(壬寅年)に要港難波津が新設されたと考えられる(『倭の五王の秘密』)。

 そこで、前期百済系倭国時代の429年から後期百済系倭国時代の522年までは、ワニ氏(春日氏)が最高位の神主として、津守氏とともに、崇神(大彦)の霊のオホアマ(大海)神をこの要港に祭っていたが、522年末頃までには、新しい難波津にもオホアマ(大海)神を祭る分社が創建されたとみられる。しかし、第7章で説明するように、534年に大伴氏が春日氏と交替して「杖刀人首(軍総司令官)」となったと考えられるので、534年に住吉社の最高位の神主も大伴氏となったとみられる。
posted by 無来 龍 at 09:15| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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