2016年08月18日

〇 住吉津と大伴氏

 大伴氏は、534年に住吉社の最高位の神主となったが、その3年後の537年に、応神(昆支・武)の霊イタケルが崇神(大彦)の霊と交替して新しいオホアマ(大海)神となり、崇神(大彦)の霊はそのヒメ神とされた。大伴氏は、『蘇我氏の実像』(信和書房「新世紀の古代史 3」)で説明したように、倭王興(歴代倭王・崇神→垂仁→讃→珍→済→興→武→男弟)の本家の後身とみられる。

 「応神紀」2年条には、応神天皇の妃、河俣仲彦(かはまたなかつひこ)の娘、弟媛(おとひめ)が稚野毛二派(わかのけふたまた)皇子を生んだとあり、『古事記』応神条には、応神天皇の妃、〇俣長日子(くひまたながひこ)王の娘、息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ・弟媛の姉)が若沼毛二俣(わかぬけふたまた)王を生んだとある。

 〇俣長日子王=河俣仲彦の本体は倭王興で、稚野毛二派皇子=若沼毛二俣王の本体はワカタケル(欽明)大王と推定される。

 『和名抄』の摂津国住吉郡に杭全(くまた)郷(現在の大阪市平野区杭全町と喜連町周辺)は、〇俣長日子王=河俣仲彦=倭王興の直轄地であった。そこで、491年に後期百済系倭国が成立した後、興本家の後身の大伴氏の本拠は『和名抄』の摂津国住吉郡にあったと考えられる。



 大伴氏の最初の首長は、「允恭紀」11年(422)条に初登場し、「雄略紀」23年(479)条、「清寧紀」元年(480)条などにみえる「大伴大連室屋(むろや)」であろう。興は477年に死亡しており、允恭・雄略・清寧は架空の天皇、「連」も架空のカバネだが、『日本書紀』が「雄略紀」23年(479)条に「大連」と書いている室屋が大伴氏の最初の首長で、室屋の子が『記紀』に登場しない談(かたり)、談の子が「武烈即位前紀」に初めて登場する金村と考えられる。


 「欽明紀」元年(540。庚申年)9月5日(己卯)条には、

  難波祝津宮(なにはのはふりつのみや)に幸(いでま)す。大伴大連金村(かなむら)・許勢臣稲持(こせのおみいなもち)・物部大連尾輿等(を  こしら)従へまつる。


とある。実際の欽明元年は、当年称元法では531年(辛亥年)、『日本書紀』の越年称元法では532年(壬子年)だから、540年(庚申年)は、実際には越年称元法では欽明9年にあたる。「難波祝津宮」は、現在の大阪城の付近にあった継体の高津宮の跡地に新築された王宮で、河内の志紀宮(斯鬼宮)に居住していた欽明は、この時、新築された難波祝津宮を訪ねたのであろう。『釈日本紀』13に引く「天書」には、


  元年九月己卯に難波に行幸す。庚辰に祝津宮に進幸す。使を遣して住江神を祠らしむ。



とある。「天書」が書かれた頃は、欽明の「難波祝津宮」の実態が分からなくなっていたので、5日に欽明が難波のどこに宿泊したか記録できなかったのであろう。しかし、「天書」のこの記事から、540年に、難波津にも住吉神が祭られていたことが分かる。



 前述の「欽明紀」元年(540)9月5日(己卯)条には、新羅を征討しようとする欽明に対して、物部尾輿(をこし)が、大伴金村の外交政策の失敗の結果、新羅が離反したとして、新羅征討反対の奏上をするが、金村は弁明せず、「住吉(すみのえ)の宅(いへ)」に居て、病気と称して、出仕しなかったとある。

 しかし、531年(辛亥年)の欽明のクーデター後、クーデターに協力した大伴氏は欽明に重用され、継体に重用された物部氏は失脚していた。そして、欽明はこの頃内政の面で王権の権力を強化する必要があったから、新羅征討を計画したとは考えられない。そこで、この記事はほとんど虚構といえるが、540年に難波祝津宮が新築されたことと、当時大伴金村が「住吉の宅」に居住していたことだけは史実とみられる。当時大伴金村は、住吉社の神主だったから、「住吉の宅」に居住していたのであろう。山田伊豆母も、「住吉神と大伴氏ー呪術と伝承ー」(『東アジアの古代文化』39)で、私とは別の観点から、大伴氏が住吉神を氏神として祭っていたという見解を詳細に述べている。
posted by 無来 龍 at 08:24| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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