2019年11月12日

過去の奴隷で……その2

問われているのは、一日中瞑想することが可能だろうか、ということです。瞑想を十分あるいは一時間、二時間のくだらない行事にするのではなく、一日中瞑想を継続し、その瞑想を通じて死ぬことの性質を、そして、新しく生き直すとはどういう意味なのかを、理解することは可能でしょうか?

さらに問われているのは、無意識であれ意識的であれ、すべてのトラウマ、欲動、衝動に終止符を打つことは可能か、ということです。さしあたりは、これらの問いに限定することにしましょう。そして、瞑想について意見を出し合って話し合うなかで、あらゆることに対して死に、その死によって精神が新しくなることについて取り上げ、人類を駆り立てている衝動について理解することになるでしょう。




「瞑想」という言葉はきわめて慎重に、大いなるためらいとともに使う必要があります。なぜなら、西欧世界ではーー世界を西欧と東洋に分けるのも、きわめて残念なことですがーー「瞑想(meditation)」という言葉はあまり意味をもっていません。西欧では、「沈思黙考(contemplation)」という言葉のほうがなじみがあります。わたしは、瞑想と沈思黙考とは別のことだと考えています。

東洋では、瞑想とは、古代あるいは現代の権威者が決めた、ある種の方法とパターンに従って日々行う実践で、そのパターンに従っていると、思考を征服し、コントロールして、その先に進める、とされています。瞑想という言葉は、一般には、そのような意味で使われています。西欧では、この意味の瞑想はあまり知られていません。

そこで、東洋も西欧もひとまず脇において、どのように瞑想するのかという方法ではなく、目覚めている精神、気づいている精神、活発な精神、何のトラウマも抑圧もなく、また無節制でもなく、いついかなるときも自らをコントロールしていない精神、自由でそれゆえに昨日の影のなかで生きることが決してない精神の性質を見出すべく探ってみましょう。それが、これから検討することです。

わたしたちは、まず、そもそもの出発点で、そこを理解することから始めなくてはなりません。なぜなら、最初の一歩は、最後の一歩より、はるかに大切だからです。自由は、最後にあるのではなく、最初にあります。そして、それが、最も理解が難しいことの一つなのです。自由がなければ、ごくごく限られた領域以外には何の運動もなく、その制約は、構造化された快楽についてのイメージや思考がベースになっています。

わたしは、みなさんに規範を示したり、みなさんが何をすべきで何をすべきでないかを話そうとしているのではありません。みなさんもまた、同意したり反対したりする必要はありません。そうではなく、わたしたちは、すべての思考が始まるところ、すべての反応が起こるところである、観念や原則を、そして、イメージを見つめなくてはならないのです。そこを理解しない限り、現在の精神の限界から、あるいは、わたしたちが育ってきた社会や文化の限界から自由になって、その先へ進むことは不可能です。

そこで、もし、よろしければ、みなさんにそれぞれに、講話を聞きながら、話し手の言葉だけでなく自分自身にも耳を傾ける、という、二つの仕事をしていただきたいのです。


posted by 無来 龍 at 09:39| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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