2020年01月22日

時間は心理的な……その6

それでは、この孤独感、執着の原因となり、それがどんなに幻想的でも、虚偽でも、無意味でも、何かにしがみつかせる孤独感とは何でしょうか?


わたしは妻にしがみつく。クラブに、神に、儀式に、友人たちにしがみつく。なぜなら、手放したら、まったく孤独になるから。みなさんはこの問題に分け入ったことがおありですか?なぜ、人間は、それほど孤独を恐れるのでしょう?彼らは集団で暮らし、どこかのグルだの何だのというさまざまなナンセンスに追従するかもしれませんが、その装飾をすべてはぎ取ってしまえば、彼らはあるがままで、孤独です。なぜでしょう?孤独とは何でしょうか?


自然とも、他者とも、友人や女性やともに生きてきたその人とも、それが何であれ、どんな関係であろうが、関係をもたずにいると、どういうわけか、そのすべてが取り去られてしまい、まったくの空っぽになり、わたしは孤独に取り残されるーーなぜでしょう?このまったくの絶望感とは何でしょうか?これから説明しますが、しかし、説明は事実ではなく、言葉は事物ではありません。このことは、きわめて明確にしておく必要があります。あなたの名前は、ミスター・スミスは、あなたではないし、言葉はあなたではないのです。



さて、説明は、現実でも、真理でもありません。では、それを見つめてみましょう。言葉なしに、「孤独」という言葉なしに、見つめるのです。それが、おできになりますか?「孤独」や「絶望」という言葉を使わずに、その感覚を見つめるのです。孤独は、わたしたちの日々がすべて自己中心的に過ごされるときに、やってきます。自己中心的な活動そのものが孤独を生み出すのです。なぜなら、それは、わたしの生全体を狭めるからです。とてつもなく広やかな生の存在を、小さな「わたし(me)」にしてしまうからです。その感覚があることに気づいたときは、「ああ神さま、わたしはなんと孤独なんだ」と感じたときは、それと向かい合い、完全にそれとともにいて、それから離れず動かずにいるのです。すると、根源的な変化が起こります。


さて、この恐怖という問題に戻らなければなりません。わたしたちは言いました。明らかに思考は恐怖の原因の一つである、と。わたしは死について考える、なぜなら、老人だから、あるいは、若いけれども、花々で飾られた馬や車の数々からなる葬列を見たから。

思考が恐怖の原因の一つであることはわかります。それは明らかな事実です。さらに、時間も恐怖の要素です。わたしは、何が起こるだろうかと恐れます。かつての行為を、誰かが脅迫の種に使うのではないかと恐れます。したがって、時間と思考が恐怖の根です。時間と思考。思考と時間のあいだには分断はありません。思考は時間です。


思考は必要だし、時間も必要です。ここからあそこへ行くために時間は必要ですし、自動車を運転したり、バスや列車に乗るには思考が必要です。そのレベルでは思考は必要だし、時間も必要です。それでは申し上げますが、思考と時間が恐怖の根であるとして、思考と時間は心理的に必要でしょうか?それらは必要ですか?心理的な世界において、自己(self)の世界、心理(psyche)の世界、皮膚の内側の世界において、時間と思考は必要である、と考えている限り、みなさんは、いつまでも恐怖のなかにいるでしょう。

もし、みなさんが、このことを知覚するなら、すなわち、思考と時間は恐怖の根である、という、このことを、受け入れるのではなく、知覚するなら、思考と時間は、物質的なレベルでは必要であっても、内面的には必要なくなります。そうなったら、必要とされない領域に思考と時間が入り込まないように、脳は、それ自身を積極的に、毎瞬毎瞬、観察し続けます。

何世紀にもわたって、あるいは一日のあいだ、恐怖を積み重ねてきた脳が、それらはどこに必要でどこに必要でないかを見て取るには、そのためには、とてつもない注意と気づきが求められます。脳は、思考と時間が生のプロセス全体に入り込まないように、タカのように見張ります。これが、ほんとうの教練・規律(discipline)であり、学びなのです。この言葉の語源は、弟子(disciple)、つまり、学ぶ者です。彼は、あらゆる時間に学んでいます。「学び終わった」と言って立ち止まることは、決してありません。

[出典 32] 1984年7月15日の「ザーネン・トーク」のテープより。
posted by 無来 龍 at 10:08| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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