2020年01月24日

その2

どうか、よく聞いてください。なぜなら、これまでも言ってきたように、わたしたちが、このすべてを、自分自身で直接に経験しない限り、この種の話には何の価値もないからです。言われていることを、みなさんが経験しない限り、ただ説明に従うのではなく、自分の思考方法に気づき、認識し、それを知って、それについて経験しない限り、まったく何の意味もないでしょう。つまるところ、わたしは、人間の生とその周囲で実際に何が起こっているかを、お話ししているだけです。

それによって、わたしたちが気づきをもち、事態を打開し突破できるかどうかを、また、その突破がどんな意味をもつかを見ることができるように、と。なぜなら、いまのわたしたちが奴隷であることは、ヒンドゥー教の奴隷か、カトリックの奴隷か、ロシアの奴隷か、あるいは、その他の何の奴隷であるかにかかわらず、明らかだからです。わたしたちはすべて、何らかのかたちの思考の奴隷で、そうしたすべてのただなかで、わたしたちが自由であり得るかと問いかけ、自由と権威の解剖学について話しているのです!



わたしたちが何を考えるかは条件づけられている、という、このことは、わたしたちの大半にとって、かなり明白だと思います。みなさんが何を考えようとーーどれほど高貴で広大であろうと、あるいは限定的で狭量だろうとーーそれは条件づけられています。そして、その考えを押し進めても、そこには思考の自由はまったくあり得ません。思考それ自身が条件づけられているのです。なぜなら、思考は記憶の反応であり、記憶はすべての経験の残留物であり、それは結局、条件づけの結果であるからです。

そこで、もし、すべての思考はどのレベルにせよ条件づけられている、と自覚するなら、思考はこの限界を突破する手段ではない、とわかるはずですーーだからと言って、ポカンとしたり、思惑を巡らせながら黙っていなければならない、という意味ではありません。



実際の事実として、すべての思考、すべての感情、すべての行動は、同調的で、条件づけられ、影響されている、そうではありませんか?

たとえば、聖人がやってきて、彼なりの言葉づかいと身振り手振り、表情、あれこれの引用でみなさんに影響を与えます。そして、わたしたちは影響されたがるのです。わたしたちはあらゆるかたちの影響から離れることを恐れ、深く入って行けるかどうか見ることを恐れ、影響の結果ではない存在の状態があるかどうか発見することを恐れます。

※ つづく




posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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