愛があるなら、あなたは未知のものを理解するでしょう。神とは何かを知るでしょう。そして、誰もあなたに教える必要はありません。それが愛の美しさなのです。それはそれ自体が永遠です。私たちは少しも愛がないので、誰か他の人が、あるいは神が、それを与えてくれることを望みます。もしも私たちが本当に愛するなら、世界がいかに違ったものであるかをわかるでしょう。そのときには私たちは本当に幸福な人々であるでしょう。
従って、私たちは幸福を物事や家族、理想に投資しないでしょう。私たちが幸福であれば、物事や人々、理想は私たちの生活を支配しないでしょう。それらはすべて二次的なものです。私たちは愛していないので、そして私たちは幸福ではないので、それらが私たちに幸福を与えてくれると考えて、物事に投資するのです。そして私たちの投資する物事の一つが神なのです。
あなたは私が実在とは何かを教えることを望んでいます。描写されえないものを、言葉で現すことができるでしょうか?測ることのできない何かを計測することができるでしょうか?あなたは握り拳の中に風を捕らえることができるでしょうか?そうできるなら、それは風でしょうか?
測ることのできないものを計測できるなら、それは実在でしょうか?公式化できるなら、それは実在でしょうか?明らかにそうではありません。というのも、描写されえない何かをあなたが描写するやいなや、それは実在であることが終わるからです。知ることのできないものを既知のものに翻訳するやいなや、それは知ることのできないものであることが終わるのです。それにもかかわらず、それが私たちの切望しているものです。
終始、私たちは知りたい(太字)と望みます。なぜなら、そのときには私たちは継続するだろうし、そのときには究極の幸福や永遠性をつかまえることができるだろうと思うからです。私たちは幸福ではなく、惨めに努力していて、へとへとに疲れており、堕落しているために知りたいのです。それにもかかわらず、混乱の中で私たちが堕落し、鈍感であり、疲れているという単純な事実を明確に理解する代わりに、私たちは既知のものから離れて、未知のものへ移動したいのです。すると未知のものは再び既知のものになり、従って私たちは、決して実在を見出すことができません。
従って、誰が覚醒しているかとか、神とは何かと尋ねる代わりに、なぜあなたのすべての注意と気づきを、あるがまま(太字)に注(そそ)がないのでしょうか?そうすれば、あなたは未知のものを見出すでしょう。あるいはむしろ、それがあなたのところに来るでしょう。あなたが既知のものを理解するなら、誘導されたものでも強要されたものでもないあの並外れた静寂と、その中にのみ実在が入ることのできる創造的な空白を経験するでしょう。
それは努力して何かになる(太字)ものに来ることはできません。それは何かである(太字)ものにのみ来ることができますが、それはあるがまま(太字)を理解するということです。そのときには、実在が遠くにあるのではないということがわかるでしょう。未知のものは離れたところにあるのではなく、あるがまま(太字)の中にあるのです。問題に対する答えが問題の中にあるように、実在はあるがまま(太字)の中にあります。私たちがそれを理解することができるなら、私たちは真実を知るでしょう。
鈍感さや貪欲、悪意、野心などに気づいていることはきわめて難しいことです。あるがまま(太字)に気づいているという事実そのものが、事実なのです。解放するのは真実なのであり、あなたの自由であろうとする躍起とした努力ではありません。このように、実在は離れているのではありませんが、私たちがそれを遠く離れたところに置くのです。なぜなら、私たちは自己継続の手段として、それを利用しようとするからです。
それはここに、今、即時の中にあります。永遠のもの、あるいは初めも終わりもないものは,今なのです。そしてこの今は、時間の網に捕えられた人間には理解することができません。時間から思考を解放することは行為を必要とします。しかし心(マインド)は怠惰で無精なので、それゆえ常に他の障害物を作り出すのです。それは正しい瞑想によってのみ可能です。
それは継続的な行為ではなく、完全な行為を意味します。そして心(マインド)が継続性の過程を理解するときにのみ、完全な行為を理解することができるのです。継続性の過程というのは記憶です。事実の記憶ではなく、心理的な記憶です。
記憶が機能する限り、心(マインド)はあるがまま(太字)を理解することができません。しかし、終わることの意味を理解するとき、人の心(マインド)は、人の全存在は並外れて創造的で、受動的な注意深さを持ちます。なぜなら、終わることの中に新生があるからです。ところが一方、継続の中には死があり、腐敗があるのです。
(385~390)
※『最初で最後の自由』(クリシュナムルティ著・飯尾順生訳・㈱ナチュラルスピリット2015年発行)の書き写しはこれで終わりです。この『最初で最後の自由』と一つ前の『生と出会う』は、どちらもよく訳されていて読みやすい本となっています。一度手にしてみてください。ブログはもう少し続きます。
2021年03月19日
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