2021年03月23日

追加ーーークリシュナムルティとの集まり

KIMG0065.JPG『キッチン日記』の第六章、「クリシュナムルティとの集まり」より抜粋します。


※はじめに、料理の献立表が載せてあります。







二月中旬に私が受けたニュースは脅威であり、電撃的だった。一ヶ月以内の1976年3月に、クリシュナムルティと全北米の20名以上の科学者や大学教授らの6日間に及ぶ会議がアリヤ・ヴィハラで行われることになったのだ。この催しはクリシュナムルティの新しい同志であるデビッド・ボーム博士によって企画されたもので、テーマは「堕落していく社会の中で自由に生きるための正しい行動は何なのか」であった。

それはいくつもの方法で私に影響を与えようとしていた。この会議についてまかない方をすべて私がやらなくてはならなかったからである。会議の出席者、夫人たち、幹部も含めると全部で45名から50名のお客になる。野菜料理の基礎的なやり方を会得するのにまだ六ヶ月もたっていないというのに、私という新米が一週間にわたる全行事の昼夜食のメニューを作り、準備しなくてはならないのだ。それは身の縮むような仕事に思われた。しかし幸運にもアランとヘレンがやってきて私を助け、彼らの専門技術を生かしてくれることになった。それに加えて、有能な数名のボランティアが現れて、全面的に手伝ってくれた。


アリヤ・ヴイハラで食事が出されている間、会議そのものは近くにある財団の理事でクリシュナムルティの長い友人であるテオとアーナ・リリフェルト家で行われた。毎朝の会議のあと、博士や教授たちは細君同伴で正午すぎにアリヤ・ヴィハラに着いた。先ほどまでの討議の興奮がさめず、ランチのときも議題を論議し合っていた。

自分たちの理論に没頭している学者たちの中にあって、クリシュナムルティはむしろ思索を続けているようで、ほとんど無口であった。学界に対する彼の関心のあり方を観察するのは魅力的だった。一面では彼の好奇心を誘ったが、他の面ではこき下すのに躊躇しなかった。英国の有名大学の入試を何度もしくじり、学位もタイトルも何も持たない彼だったが、集まった科学者や教授たちに基本的なやり方で挑戦していた。



会議の初日に彼は「すべての思考は悲しみに導く」と言明することで彼らの中心に心理的な爆弾を投じた。この単純な叙述の絶対性は出席者のほとんどの生計と職業が依存している知識の基礎を疑問視したばかりか、彼等の個人的、集団的価値構成を断固否定し去っていた。従って、それに続く喧騒は会議が終了したあとまで止まなかった。

数名の派手な参加者の存在はドラマ的センスを一層盛り上げ、全期間を通じて支配的だった。初めの頃、カナダの大学から来た一人の教授は少しばかり常軌を逸した行動をした。自己に関する彼の長い学術論文を披露する機会がないという挫折感で彼は言葉汚く大声を上げた。罵詈雑言を吐き散らして、三日目に早々と立ち去ってしまった。

南カリフォルニアから来たある学者は食事の時も広巾の羽毛の飾りのついたカウボーイ帽をかぶっていた。彼はそれを彼の「力を出す帽子」と称していたが、その想念は当時有名になりつつあったカルロス・カスタネダの著作からとったものだった。その教授はその本の中心人物であるドン・ファンの教えとクリシュナムルティの教えの相似点を比較しようと懸命になっていた。

20才後半の魅力的な女性が匿名でやってきたが、たぶん誰からも無視されたという落伍感で翌日自分で正体をはっきりさせた。彼女はかなり著名度のある国家的リーダーの有名な細君だったのだ。

※つづく




posted by 無来 龍 at 10:00| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
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