2020年02月28日

思考する者と……その8

わたしたちの精神は条件づけられている、わたしたちの精神はいつまでもおしゃべりを続けて、決して静かにならない、という、かなり明らかなこの問題への取り組みを、どのように進めましょうか?わたしたちは静寂を押し付けようと試みますし、たまたま、そうなることもあります。この問題への取り組みを進め、学び、見るためには、精神の静寂がーー壊されることも、引きちぎられることも、苛まれることもない、精神の静寂がなければなりません。

何かをきわめて明晰に見たいと思うなら、それが木であれ、雲であれ、隣にいる人の顔であれ、どんな歪みもなしにきわめて明晰に見るためには、明らかに精神はおしゃべりをやめていなければなりません。精神が観察し、見るためには、まさに、静かでなければならないのです。そして、見ることそのものが、行為であり、学びなのです。それでは、瞑想とは何でしょうか?

考慮し、観察し、把握し、学び、どんな歪みもなしにきわめて明晰に見ること、自分の偏見に従って解釈したりせずに、すべてをあるがままに聞くこと、それは可能でしょうか?朝方、さえずる鳥の声を聞くとき、精神のなかに飛び出してくる言葉なしに完全に聞くこと、全的な注意とともに聞くことはーーなんて美しい、なんて愛らしい、なんとすばらしい朝だ、と言ったりせずに聞くことはーー可能でしょうか?


これらはすべて、精神が沈黙していなければならないことを、そして、どんなかたちの歪みでもあるなら、精神は沈黙していられないことを意味しています。ですから、人は、個人と社会のあいだの葛藤でも、個人と隣人とのあいだの葛藤でも、自分と妻、夫、子どもたち等々のあいだの葛藤でも、とにかく、葛藤のあらゆるかたちを理解しなければならないのです。

葛藤は、どんなかたちのものも、どんなレベルのものも、歪曲のプロセスです。自分をさまざまに異なる方法で表現したいのに、それができないときに生じる矛盾が自分自身のなかにあるとき、そこには、葛藤があり、奮闘があり、苦痛があり、それが、精神の質、微妙さ、敏速さを歪めます。



瞑想とは、生の質を、その二元的な活動である葛藤とともに理解することーーその真の意義と真理を見て、何千年にもわたって条件づけられ、葛藤と苦闘と争いのなかで生きてきた精神が、何の歪みもなく、明晰になることです。その精神は見ます。あるがままとは反対のあるべき観念やイデオロギーに追随するとき、必ず歪みが起こり、それゆえに、二元性、葛藤、矛盾があり、精神は苛まれ、道を外れる、という、このことを。
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2020年02月27日

思考する者と……その7

さて、精神は、イメージなしに観察することができるでしょうか?ーー木の、雲の、丘陵の、流れる水の、妻の、子どもたちの、夫の、伯母のイメージなしに、関係性のなかのどんなイメージもなしに観察できるでしょうか?

関係性のなかに葛藤をもたらすのはイメージです。そうですね?

わたしは妻とうまくいかない。なぜなら、妻はわたしに威張るから。このイメージは何日もかけて作られたのであり、そして、そのイメージは、どんな種類の関係性も妨げます。わたしたちはともに眠るかもしれません。ですが、無関係なのです。そして、争います。では、精神は、時間によって作り上げられたどんなイメージもなしに見ることが、観察することができるでしょうか?それは、観察者なしに、過去なしに、「わたし(me)」なしに観察することを意味します。わたしは、あなたを、条件づけられた存在としての「わたし(me)」なしに見ることができるでしょうか?


質問者: 不可能です。


クリシュナムルティ: 不可能ですか?どうして不可能だとわかるのですか?不可能だと言った瞬間、あなたは自分自身を固定するのです。そして、可能だと言っても、やはり、自分自身を固定することになります。ですが、もし、見出してみよう、調べてみよう、分け入ってみよう、と言うなら、あなたは、精神が時間の目なしに観察できることを見出すでしょう。そのように観察するとき、そこには、観察されるべきものとして、何がありますか?


わたしは、自分自身について学ぶことから始めましたーーあらゆる可能性を、分析を、そのすべてを精査し、観察者は過去であり、精神は過去に住んでいる、と見ます。なぜなら、脳は、過去である時間のなかで進化してきたからです。そして、過去には「安心」があります。そうですね?

わたしの家、わたしの妻、わたしの信念、わたしの地位、わたしの位置、わたしの名声、わたしの忌々しいちっぽけな自己ーーそのなかに、大きな「安全」「安心」があります。そして、わたしは問います。精神は、これらのいずれもなしに観察できるだろうか、と。もし、そのように観察するなら、そこには、丘陵や花々、色彩や人々以外に、何が、見るべきものとしてありますか?ーーわたしのなかに、何か、観察されるべきものがあるのでしょうか?

したがって、精神は完全に自由です。そこで、みなさんは言うかもしれません。そのように自由であることのポイントは何なのか、と。ポイントはこうです。そのような精神に葛藤はない。そして、そのような精神はまったく静かで、安らかで、暴力的ではない。そのような精神は新しい文化を創造できるーー新しい文化を、古い文化に対抗する文化(counterculture)ではなく、何もかもがまったく違うものとして。そこでは、わたしたちは何の葛藤もなくあるでしょう。人は、論理的にではなく、言葉による言明でもなく、自分自身のなかの実際の事実として発見しますーーそして、精神は、全的に、したがって、過去の目なしに観察できます。それゆえに、精神は、まったく異なる何かなのです。

[出典 39] The Awakening of Intellgence , C 1973 Krishnamurti Foundation Trust,Ltd.(邦訳なし)に収録された1971年7月22日の「ザーネン・トーク」より。
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2020年02月26日

思考する者と……その6

さて、わたしは、時間に触れられたことがない目とともに、自分自身を見ることができるでしょうか?


時間は分析をともない、過去にしがみつきます。夢見て、思い出して、過去を集めてしがみつくプロセスーーそういうすべてです。わたしは、自分自身を、時間の目なしに見ることができるでしょうか?

そう、自分自身に問いかけてください。できるとかできないとか言わずに。みなさんは知らないのです。そして、自分自身を、時間の目なしに見るとき、そこには、何が見えるでしょう?どうか、わたしに答えないでください。わたしの質問を理解なさっていますか?


わたしは、自分自身を、過去とともに、時間の資質と性質と構造とともに見てきました。過去の目を通じて、自分自身を見てきたのです。わたしには、ほかに見るべき目がありません。わたしは、自分自身を、カトリック、あるいはその他の何かとして、つまりは過去として見てきました。ですから、わたしの目は、わたし自身を、その「あるがまま」を、時間なしに、つまりは過去なしに見ることができないのです。そこで、わたしが問いかける質問は、こうです。目は、過去なしに観察することができるでしょうか?


では、違う言い方をしてみましょう。わたしは自分自身のイメージをもっています。自分が暮らしてきた文化によって創造されたイメージだけでなく、文化から離れた、まったく独自の自分自身のイメージもあります。わたしたちはとてもたくさんのイメージをもっています。わたしはあなたのイメージをもっているし、妻の、子どもたちの、政治指導者の、聖職者のイメージがあり、そして、わたしはこうあるべき、わたしはそうではない、というイメージがあり、同じように、文化が押し付けてきたイメージもあります。ですから、わたしには大量のイメージがあります。みなさんにもあるのではないですか?

(聴衆から「あります」という答え)

よかった!では、どうすれば、イメージなしに見ることができるでしょう?なぜなら、イメージとともに見れば、歪(ゆが)むからですーーそれは明らかですね?


わたしは、自分がもっている、あなたについてのイメージとともに、あなたを見ます。それは、作られたイメージです。なぜなら、昨日、あなたはわたしに怒ったからです。あなたはもうわたしの友だちではない、あなたは醜い、あなたはこうだああだ、というイメージです。そのイメージは、次にあなたと会うときの知覚を歪めます。そのイメージは過去であり、わたしのすべてのイメージは過去なのです。そして、わたしはそのようなイメージのどれも、思い切って捨てることができない。なぜなら、イメージがなかったらどうなるか、わからないからです。それで、わたしは、一つか二つのイメージにしがみつきます。このように、精神は、生き延びるためにイメージに頼るのです。
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